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2016/10/02

■節子への挽歌3316:朽ちる身体

節子
人は、60歳を過ぎると、朽ちていくものだ、それに抗うことはしない、というのが私の信条です。
朽ち方はいろいろとありますが、その信条に基づき、無理に若さを保とうとか健康努力をするなどというのは、私の趣味ではありません。
そもそも、健康であることには、以前からさほど頓着はありません。
これは節子とは違っていました。
皮肉なもので、健康意識の強かった節子が、先に旅立ちました。

節子に先立たれてから、私の身体維持への関心はさらに低下しました。
それに70歳を過ぎれば、それを手入れするのにコストをかけるのは、社会的にももったいないと思います。
ですから、少々、身体に不具合が起こっても、よほど困らなければ治療にも関心はありません。
身体もまた、朽ちるに任せるのがいいという思いがどこかにあります。

実は私は視力が弱く、特に右目は最近、本を読むのにも不都合があります。
そもそも眼が小さく、検査の時にももっと大きく眼をあけてと言われれるのですが、眼が明かないのです。
ですから、普通の人に比べて、私の視界は狭くて暗いのです。
暗い世界を生きているというわけです。
これは、いまに始まったことではなく、もうかなり前からそうなのですが、最近、急速に世界は暗くなってきています。
まあさほど余命も長いことはないので、治療することもないと思うのですが、さすがに最近は不便です。
そろそろ限界かもしれません。
信条にはいささか反しますが、治療に行こうかと思います。
もし視力が回復すれば、読書速度ももっと早くなるでしょう。

身体的若さを保とうなどという気はないのですが、精神的若さに関しては、むしろもう少し朽ちてほしいという気がします。
私の場合、精神的成長があまりに未熟なので、人との会話において、いまもなおみっともない醜態をさらすことが少なくありません。
というよりも、どこかで「精神的成長」への忌避感があります。
精神的な成熟には魅力を感じますが、成熟に至る前の「成長」を私の場合、果たしていないので、成熟はまさに「高嶺の花」でしかありません。
実に困ったものですが、今更どうしようもありません。

ついでに「知的」な面はどうでしょうか。
知的でありたいと思いながら、どうもこの面も落第のようです。
ただ好奇心だけは、いまなお、子ども時代とそう変わりません。

余計なことを書いてしまいましたが、朽ちる身体に、掉さすべきかどうか。
信条に反する行為を一度でもとれば、たぶん人生は変わってしまうかもしれません。
これまた悩ましい問題です。
きっと「瑣末な問題」でもあるのでしょうが。

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