■世界が広がる議論
昨日から企業の管理職に人たちの合宿に参加しています。
テーマをもって自分たちで研究し,報告書をまとめていくというプログラムの仕上げの合宿です。
こういう合宿に、私は25年以上,継続して参加していますが,そこで感ずることのひとつは、議論する文化がどんどんなくなってきているのではないかということです。
さらに気になるのは,パソコンなどの持ち込みによって、直接的な話し合いが変質してきたことです。
プロジェクターで投影されたパソコン画面を通しての話し合いのスタイルが広がっている気がします。
昔は、ホワイトボードに、みんなが手書きしあいながら議論していたような気がします。
私が、この活動に関わり出した25年前の風景とは、あまりにも違ってきています。
年々の変化は小さいですが、なんとなくそんことを感じ続けています。
それは、私には企業の文化の変化、時代の風潮の変化、のようにも感じます。
今回は、これまで私が参加してきた層より若い世代だったのですが、状況は同じでした。
議論を起こそうとあえて挑発的なコメントもしてみましたが、逆効果でした。
私は,議論が大好きです。
議論を通して,自らの考えを相対化でき、世界を広げることができるからです。
私にとっての議論の魅力は、何かをまとめるというよりも、世界を広げるというところです。
世界が広がれば、新しい問題が見えてきます。
何かをまとめるということは、新しい問題に出会えるということです。
同世代の人たちとは今もよく議論します。
しかし,考えてみると,若い世代の人たちとの議論は少なくなったような気がします。
もしかしたら,私の議論の仕方がずれてきているのかもしれません。
議論していないのは、私なのかもしれません。
その可能性がないではないですが、私には、やはり社会から、気づきのための議論の文化が消えつつあるような気がしてなりません。
もっとも、最近はディベート教育も広がっているようです。
議論し合い、異論をぶつけ合うことが重視されてきているという動きもあります。
しかし、議論する文化が消えつつあるからこそ、ディベートなどが話題になってきているのかもしれません。
しかし、ディベートと議論は、私には別物です。
違いを明確にしたり、合意形成を目指したり、自己弁護したりする議論ではなく、世界を広げるという議論、新しい気づきに出会える議論が、もっと広がればいいなと、思っています。
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