■節子への挽歌3318:飛鳥寺から物部を思い出しました
節子
今日、テレビで飛鳥寺を放映していました。
飛鳥寺は大好きで、私は何回か行っていますが、節子とも3回ほど行ったような気がします。
テレビの映像から、飛鳥大仏の置かれている部屋の様子も少し変わっているのがわかりましたが、飛鳥大仏の表情は、当然ですが、あの頃のままでした。
私たちが行った頃は、飛鳥寺全体に、まだとても素朴な感じが残っていました。
お寺の狭い部屋で、住民のみなさんがご住職の説法を聞いていた場面にも出会ったことがあります。
私たちは、それを聴くことなく、ふたりだけで飛鳥大仏と対面していました。
とてもあったかな不思議な時間を過ごしたのを覚えています。
飛鳥の大仏は、その時もいまと同じように、少しぎこちない微笑を浮かべていました。
あの表情は、一度見たら、忘れられません。
飛鳥寺は、そもそもが蘇我氏の氏寺です。
いまは真言宗豊山派の寺になっていますので、わが家のお寺と同じです。
蘇我氏と言えば、思い出すのが、物部氏です。
節子と付き合って、節子の生家のあるところが、滋賀県の高月町(現在は長浜市)の西物部という集落だと知った時には、なぜか感激しました。
そして、さらに節子の母方の実家が、すぐ近くの唐川という集落であることを知った時にも、心が騒ぎました。
唐川の集落の後ろにある山を最初に見た時には、これは古墳だろうと思いました。
節子にも話しましたが、残念ながらその頃の節子は、まったく興味を示しませんでした。
節子の生家の周辺に限りませんが、滋賀には日本の古代の記憶がたくさん埋まっているようです。
いつか時間ができたら、節子と一緒に、そうした古代を感ずる滋賀の遺跡周りをしたかったと思っていましたが、ついにそれは実現できませんでした。
節子が元気だったころ、節子の生家から米原にかけての「かんのんみち」の寺社は、いくつかまわりましたが、どこも奈良や京都は違う魅力がありました。
私は、古代の日本には物部王朝があったという、鳥越憲三郎さんの考えに、とても魅かれています。
最近、藤井耕一郎さんの本で読んだのですが、卑弥呼時代の直前は、近江の滋賀が出雲だったという説もあります。
滋賀の湖西の栗東郡あたりに、みやこがあったというのです。
それを物語るように、そこからは大きな遺構も発見されているそうです。
私は行ったことはないのですが。
ヤマタノオロチ伝説も、もともとはそこにある三上山から生まれたという説もあります。
三上山は、いまも新幹線で通過するときに見ることがありますが、最初に見た時には、やはり心に感ずるものがありました。
滋賀には古代の歴史がたくさん埋もれている気がします。
私が節子に魅かれたのは、滋賀の人だったからかもしれません。
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