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2016/10/26

■節子への挽歌3340:托鉢行

節子
昨日は留守にしていたのですが、ふたりの方から新米が届いていました。
今年は3つ目の新米です。
それを見ながら、最近の私の人生は、まるで「托鉢」ではないかと、ふと思いました。
そういえば、昨日も、一昨日につづき、お昼をご馳走になってしまいました。
先日、「3335:まだ施しするものがある喜び」で、若いころの禅僧の金子真介さんの体験談を書きましたが、それを思い出しました。
施しを受けることもまた、喜びです。

人生は巡礼のようなものとは、巡礼者の鈴木さんと話していて話題になったことですが、人生はまた「托鉢」なのかもしれません。
そう考えると、いろんなことが楽になります。

ある人に、私は「契約」社会にはなじめないので、契約には関心がないと話して、呆れられたことがあります。
その人は、私と同じ考えだと言って、私のところに出入りしていたのですが、残念ながら、私とは正反対の考えだったわけです。
それ以来、その人の足は少し遠のいた気がしますが、契約を介さなければ人の関係が構築できないような生き方は、私の好みではありません。
私は、できるならば、人を信頼して生きていきたいと思っています。
しかし、契約は、そもそも人を信頼しないところから始まります。
契約の正反対のところにあるのが、布施かもしれません。
布施と托鉢の関係に関しては、私にはよくわかりませんが、私がいま元気なのは、もしかしたら、周りの人が私の鉢に「元気」を托してくれているからかもしれません。

昨日、少し疲れて帰宅して、2袋の新米を見ながら、そんなことを考えていました。
托鉢は、みんなを元気にしてくれます。
私がやっているのは、もしかしたら、托鉢行かもしれない。
そんな気がします。

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