■節子への挽歌3328:「喪失」ではなく「出会い直し」
節子
夢を見ました。
まだ会ったことのない女性の夢です。
顔は出てきませんでしたが、節子ではありませんでした。
節子を含めて、これまで会った女性たちを感ずる女性でした。
政治学者の中島岳志さんが、ある本で、「葬式や法事は死者との出会い直しの場」だと書いていました。
目が覚めた時に、なぜか、それを思い出して、その本を探してみました。
たしかに、書いてありました。
そして、哲学者の田辺元や歴史学者の上原尊禄に論及し、「彼らが考えたことを私なりに読み替えてみると、「二人称の死」というのは「喪失」ではなく「出会い直し」である」とも書いています。
その言葉が、すーっと心に入りました。
節子がいなくなってから、ずっと「出会い直し」をしていたのかもしれません。
そう考えると、いろんなことが腑に落ちてきます。
人は、現前する存在だけを愛するわけではありません。
目には見えない存在を愛することは、よくあることです。
現前しているが故に、逆に相手が理解できていないこともあります。
お互いの関係性さえ、うまく構築できないこともある。
節子がいなくなってからの、この9年は、出会い直しの期間だったのかもしれません。
出会い直しがうまくできたかどうかはわかりませんが、
今日、夢で会ったのは、出会い直した節子だったのかもしれません。
夢で、その女性に会ったのは、ほんの一瞬です。
彼女は、私に、何かをしないようにと懇願したような気がします。
ところが、その肝心の内容が思い出せないのです。
覚えているのは、そのうえで、私の生き方を受容してくれたような記憶が残っています。
何を忌避され、何が受容されたのか、思い出せないのがもどかしいです。
ただ、その時の周辺の風景はかなり思い出せます。
荒れは黄泉比良坂だったかもしれません。
女性は、小高い山での私の行動に関して、何かを言っていました。
夢は、いつも不合理で、意味不明です。
でもまあ、「出会い直し」ということに気づかせてくれた夢なのかもしれません。
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