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2016/10/30

■節子への挽歌3345:「看取れる関係」と「看取れない関係」

節子
昨日、「看取りの文化」をテーマにしたサロンを開催しました。
なんと20人を超すサロンになりました。
関心の高さを改めて感じました。

話題提供してくださったのは、中野でホームホスピス活動に取り組んでいる冨田さんです。
長年、地域包括センターなどで仕事をされていましたが、やはり行政の枠の中だけではできないことも多く、地域の医療職や福祉職の人たちと取り組みだしています。
その誠実な取り組みに、とても感動しました。

サロンには、若い僧侶から恒例の福祉活動実践者まで、さまざまな方が参加されてくれました。
そして、数名の方は、自らの看取り体験を語ってくれました。
それぞれとても心にひびくものでした。
考えさせられる示唆もたくさんなりました。
しかし、それにもかかわらず、やはりどこかに違和感が残りました。

看取るという行為は、やはりそれぞれに違うのだろうなと思います。
いや、もしかしたら、看取るという言葉自体に、私は違和感があるのかもしれません。
看取ると言ってしまうと、看取る人と看取られる人が別のものになってしまう。
たしかに、両親の場合は、「看取る」という言葉でも違和感はありません。
しかし、伴侶だった節子の場合には、どうも「看取る」という言葉がぴんとこないのです。
ではどういう言葉がふさわしいのか、と言われても、代わりの言葉は思いつきません。
でも、少なくとも、「看取る」というような感じではありません。
「看取る」というと、なにかが完結したという感じがしますが、節子との場合は、まだ終わっていないような気がするのです。
むしろ、何かを「共にした」というような気分です。
そして、看取ったはずの人は、その後もまだ生きている。
言い換えれば、私自身は、その後はもう生きていない(それまでの生とは違うという意味です)。
そんな感じがするのです。

両親は看取れても、伴侶は看取れない。
看取れないからこそ、いまもこうして、挽歌を書いているのかもしれません。
こういう気持ちは、たぶん、他の人にはわかってもらえないかもしれません。

わが子の場合も、そうなのかもしれません。
「看取れる関係」と「看取れない関係」がある。
そんなことを、今日は考えています。

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