■愚民民主主義?
19日に、「国民の声は政治に届いているのか」というテーマで公開フォーラムを開催しました。
その簡単な報告は、このブログにも書きましたが、そこでは書かなかったことがあります。
ゲストに、憲法学者の小林節さんと弁護士の伊藤真さんをお呼びしました。
そのおふたりから、衝撃的な発言があったのです。
いまの日本の国民は、「愚民」「奴隷」「家畜」だと、繰り返し明言したのです。
伊藤さんの論旨はこうです。
いまの政権の施策を多くの国民は支持している。
自分の生活や利害に直接関係ない問題に、理解も関心も持たない「愚民」の声は政治に届いていると言えるのではないか。
小林さんはこう言います。
憲法の問題を話しても、自らの生活を維持するので精いっぱいで、そんな問題など関心を示さない。
こいつらは愚民だと思う。
正確には、そのうちに動画記録をリンカーンクラブのホームページにアップしますので、それを見ていただきたいですが、そう大きくは違っていないでしょう。
私自身は、おふたりの発言にはさほど驚きませんでした。
いわゆる「有識者」のみなさんの本音が、これほどあらわに出ることは少ないですが、日ごろの言動から伝わってきていることですから。
この発言に対しては、さすがに会場から反論的な意見は出ました。
おふたりの「目線の高さ」を指摘した人もいました。
しかし、ほぼ例外なく、発言の最後はなぜか、その「愚民論」を受け容れてしまうような、腰砕けの意見が多かったのです。
私にとっては、それがむしろ驚きでした。
もっと怒ってしかるべきでしょう。
怒ることを忘れたのか!
私は進行役でしたので、怒りをぶつけることもできず、しかし一言だけ、「価値観の置き方によっては2人が愚民になる」と話させてもらいました。
おふたりからの反論はありませんでしたが、もしかしたらそんな指摘を受けたこともないでしょうから、耳に入っていなかったかもしれません。
リンカーンクラブは、できるだけ民主主義の理念に社会を近づけていこうという思いで活動しています。
そこで考えている「民主主義」とは、民主政治制度のことではありません。
「個人の尊厳を尊重する」ということです。
ちなみに、おふたりも、そういう表現も使っていたように思いますが、国民を「愚民」と見なしてしまうこと自体が、「個人の尊厳」を否定することです。
たぶんおふたりとも「個人の尊厳」の意味を知らないのでしょう。
国民の多くを「愚民」と決めつけることは、まさに「個人の尊厳」を否定することであり、日本国憲法の理念に反するのです。
もしかしたら、おふたりとも、日本国憲法を読んでいないのではないかと、私には思えました。
そんな馬鹿なと思われるかもしれませんが、読んでいて理解できないほど「愚かな」人ではないでしょう。
おふたりの主張は、「愚民」は相手にせず、です。
自分たちは「愚民」の仲間に入れていないのですが、先日のフォーラムに集まった人たちは、かれらのいう「愚民」でしょうか。
たぶんおふたりは、わざわざ集まってくれた「愚民」でない人たちに、むしろ「迎合」していたのかもしれません。
もしそうだとしたら、とんでもない思い違いです。
なかには、おふたりの話をありがたく聞いた人もあるかもしれませんが、私には、その後、失望したとかがっかりしたというメールがいくつか入ってきています。
書いていて、だんだん嫌になってきました。
このフォーラムの終わった時には、いろいろと書きたいと思い、昨日も書こうと思っていましたが、今日、書いているうちにだんだんむなしくなってきました。
怒りが消えていってしまったのです。
実は昨日、フェイスブックで予告したので、アップしないわけにはいかないのですが、昨日は少し「大見得」を切ってしまった気がします。
いろいろと書こうと思っていたのですが、やはりどうもモチベーションがあがりません。
少し視点を変えて、改めて書き直してみようと思います。
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コメント
そうだったんですか。
愚民という言葉が適切かどうかも、その視点が適切かどうかも、聞いた方が自分を愚民と認めるのが適切かどうかも、私には判断できませんが、私には今の状況は私たちすべてが作り出したものだと思えます。
愚民と有識者という言葉ではなく、この世にはこの瞬間に利己心むき出しの個人と利己心よりも他者への愛の行為が上回る人が、無限のグラデーションで存在していて、その総体というか、現行のシステムで具体化するプロセスで現れたある仮想の総計が今の状況を作り出したと思います。
「有識者」も「愚民」もラベルでしかありません。私自身は、有識者でも愚民でもなく、私でしかありません。
私自身の中にある利己心と唯物主義と戦って、それを他者への愛でうわまれるように努力を重ねています。
魂の力が肉体本能や利己心を支配下に置くことは、苦しいですが可能です。
佐藤さん、
誰であれ、人をラベリングして二分してしまうのは、危険です。
有識も愚も、そのどちらもすべてが持っていて、程度の違いには無限のバリエーションがあり、そのバリエーションも唯一の線分の上に一直線に並ぶわけがありません。
知能指数や偏差値で人を測ることはできません。
愛情の深さや人格を図測ることができないのと同じです。
投稿: 小林正幸 | 2016/11/26 16:20