■節子への挽歌3360:不機嫌な気分
節子
最近、私自身がずっと「不機嫌な気分」を背負い込んでいるのに、気づきました。
不機嫌さに気づいたというのも、変な話ですが、昨日、まあいろんなことを忘れて、平安に過ごしたのですが、さて明日からまた日常に戻るかとベッドに入った途端に、なにやら心身の奥にある「不機嫌な気分」に気づいたのです。
そして、昨日、何もやりたくなくなったのは、そのせいだと気づきました。
そういえば、おとといも、自分で呼びかけておいた集まりなのに、前向きに進めるつもりになれなかったのは、そのせいかもしれません。
みんなを不愉快にさせてしまったかもしれません。
私自身が一番不愉快になっていた気がしていましたが、むしろ私が「不機嫌菌」だったのです。
その前の日は、魅力的な人に会えて楽しかったのですが、パーティはどうも楽しめなかったのですが、これもそうかもしれません。
そう考えていくと、この数か月、ずっとどこかに「不機嫌な気分」があるような気がしてきました。
とくに思い当たる原因があるわけではありません。
しかし、「不機嫌な自分」がいると考えると、いろんなことがうまく納得できるのです。
不機嫌だからこそ、それを打開しようと、何か新しいことをやりたくなる。
しかし、やればやるほど、その不機嫌さは増してきてしまう。
そんな気がします。
要は、私自身が「わがまま」なのでしょう。
自分の思うようにならないと不機嫌になってしまうのは、まるで「子ども」そのものですが、そのくせ、その自分とは違うやり方を受け容れてしまう、実に寛容な「大人」の自分もいるのです。
私の心身の中で、その「子ども」と「大人」は葛藤しているのかもしれません。
「不機嫌」というのは、いまの私の気分にピッタリな気もします。
しかし、もしかしたら、いまの時代そのものが「不機嫌な時代」なのかもしれません。
だからみんな、誰かのせいにしたり、誰かに期待したり、自分をなくして誰かに自分を投影したりしているのかもしれません。
自分を生きている人が少ないのです。
だから、自分をしっかりと生きている人、つまり機嫌のいい人に会うと、うれしくなってしまう。
しかし、同時に、そういう人に会うと、他の人がみんな「生きていない」ようの思えてしまう。
もちろんそこに私自身もはいってしまい、機嫌が悪くなってします。
せっかく昨日は良い日だったのに、今朝は機嫌の悪い朝に戻ってしまいました。
困ったものです。
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