■節子への挽歌3373:「私は沈黙していたのではない」
節子
久しぶりに、遠藤周作の「沈黙」を書棚から引っ張り出して、最後の部分を読みました。
そこに書かれていたのは、こんな文章です。
今までとはもっと違った形であの人を愛している。 私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。 (中略) あの人は沈黙していたのではなかった。 たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。
「沈黙」をひっぱり出してきたのは、今朝のNHKの「こころの時代」で、取り上げられていたからです。
遠藤周作の歴史小説「沈黙」は、江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭ロドリゲスの「ころび」を題材に、神と信仰の意義を描いた重厚な作品ですが、今年、ハリウッドで映画化されました。
その映像をイメージしただけで、私にはとても見には行けないと思っていますが、今日の番組を見て、本は読み直せるかもしれないと思ったのです。
この本を読んだ時の衝撃は、その後もずっと残っています。
たぶんもう読み直す気にはならないだろうと思いながらも、その本が私の乱雑な書庫のどこに蔵書されているかは常にはっきりとしている、特別の本の1冊です。
40数年間、開いたことのない本を開いて、最後の5ページだけを読みました。
この本のエッセンスは、最後の数ページにあることだけは覚えていたからです。
その前の部分は、ストーリーはともかく、思い出すだけでも気分が重くなるイメージが明確にあるため、いまもなお読む気にはなれません。
そして、その最後の最後にあるのが、上記に引用した文章です。
キリスト教徒たちを拷問の苦しみから救うために、自ら〈踏絵〉してしまった司祭ロドリゲスの言葉です。
そこには、「愛」とは何かが、書かれています。
神への愛と人への愛は、質が違うと言う人もいるでしょうが、私には「愛」は一つです。
節子への愛も、神への愛も、自分への愛も、他者への愛も、すべて同じなのです。
それは節子も知っていたことです。
独占したり、独占されたりする「愛」は、私の考える「愛」ではありません。
それは、はかない愛の幻でしかありません。
「愛」は所有されるものでも限定されるものでもないのです。
まあ、そんな「愛」の議論はどうでもいいのですが、「沈黙」の最後のこの文章は、愛の本質を語ってくれているように感じます。
同時に、「沈黙」の意味も語っています。
同じ場所にこんなやりとりがあるのです。
踏絵を躊躇するロドリゲスに向かって、踏絵の木のなかの主が、「踏むがいい」というのです。
言葉でではありません。哀しそうな眼差しで、です。
「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」。
ロドリゲスは、問いかけます。
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
それに対する主の答えは、とても心にひびきます。
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」。
この言葉を、私は忘れていました。
40数年前に、とても感激したはずだったのですが。
見えなくても存在するものがあるように、聞こえなくても呼びかけられているものもあるのです。
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コメント
まるで、主君と家臣の関係のように私には感じられます。
私はキリスト教を信じませんし、その他新旧一切の宗教を信じませんが、神は厳然として在ります。それは信じる信じないの問題ではなく、事実を事実として認めるか否か、です。
神は、奇妙奇天烈な宗教教義が言うような人格を持つものでもなければ、人の姿でもありません。人は太古には嵐や稲妻や自然災害を神の怒りととらえて、動物や人さえも生贄にしました。極めて幼稚な神認識しか持てなかったために、そんな残酷なことをしてきたのです。
ただの絵を踏んだから、怒ったり苦しんだりするのが神の訳がありません。
もう、そんな幼い神認識はいい加減に卒業しなければいけません。
神は自然法則として顕現しています。自然科学の手法では認識も説明もできない法則まで含めて、宇宙を統べるすべての法則としてです。
神が直接私たち人間にコンタクトすることはありません。なぜか?神は絶対公平であり、完全だからです。
反対の絶対公平ではないものとは、特定の人、例えばイエスキリストを信じると述べて水をかけてもらった者「だけ」を救う、ようなえこひいきをする神です。それは神ではない。不公平であり、不公正であり、完全ではありえない。それは人間が作り上げた神です。
極めて論理的でしょう?宗教は論理的ではありません。矛盾と欺瞞だらけです。三位一体説も贖罪説も、ごく普通の小学生の理性でも、とても納得できるものではありません。
でっち上げの教義からではなく理性と事実からの神認識を、宗教ではなく事実に基づく知識として、私たちは十分に吟味した上で持つべき時に来ています。
投稿: 小林正幸 | 2016/11/27 23:55
小林さん
ありがとうございます。
私はキリスト教徒ではありませんが、神は信じています。
もちろんキリスト教の神ではなく、私自身の神ですが。
ところで、「事実」ってなんですか?
投稿: 佐藤修 | 2016/11/28 07:00
人間が、キリスト教に「帰依」した者だけではなく、すべての人間が永遠の命を持つということです。
検証できる事実として、幾多の実験検証が行われ記録が残されています。佐藤さんがご存知の、石巻で真夏にコートを着てタクシーに乗った人たち、つまり3.11で亡くなった方の霊が今を生きる人間に語りかけ、意思の疎通がなされている、という事実などです。
私たち肉体に閉じ込められた人間には、神を直接感得することは困難だそうです。しかし、森羅万象から類推することは可能ですし、ナザレ人イエスが今どうしているのか、のメッセージも得ることができます。
そのメッセージが真実か否かを吟味する理性も、神はすべての人に付与してくださっています。
投稿: 小林正幸 | 2016/11/28 08:01
ありがとうございます。
そういう意味であれば、ロドリゲスの体験も事実でしょう。
それに、
>私たち肉体に閉じ込められた人間には、神を直接感得することは困難だそうです
というのは、誰かの意見であって、事実ではありません。
第一、肉体に閉じ込められた人間なんているのでしょうか。
知識に閉じ込められた人間はいるでしょうが。
知識は、異論を受け容れてこそ、広がっていきます。
小林さん
一度また湯島に来ませんか。
投稿: 佐藤修 | 2016/11/28 08:21
はい、ぜひまた湯島に伺いたいです。
私が、新しい音楽新しい音楽とバカみたいに繰り返しているのも、新しい音の美しさを探しているのも、音楽を通して神を知りたいという意味があるんです。
ただ、この話ではサロンは成り立ちません。受け入れる準備のできた人以外には一切なんの意味もありませんから、議論にならないばかりか、なんの実りもえられません。
死別のとてつもない悲しみと苦しみをとことん味わった人、不治の病に直面してすべての価値観が吹き飛んでしまった人、そんな人たちなら聞く耳を持ってくださるかもしれませんが。
投稿: 小林正幸 | 2016/11/28 08:56
すみません、書き洩らしました。
①「第一、肉体に閉じ込められた人間なんているのでしょうか。」
②「知識に閉じ込められた人間はいるでしょうが。」
②は明らかにあります。その最たるものがキリスト教神学などの人が作り上げた宗教教義であり、また、自然科学万能の風潮から生まれた唯物主義です。
①は、とても大切な根幹の事実認識です。私たち人間の存在の本質はなんなのか?ということです。
エリザベス・キューブラーロス博士が断言し数多の実証がなされている人間の死後存続。
立花隆氏が時を隔てて2度に渡って研究した臨死体験、それが脳内の化学反応からくる幻覚なのか死後の世界が実在するのか。
肉体を失っても人間が存続するなら、人間の存在の本質は肉体ではありません。
私が死別の悲しみを逃れることができたのは、この「知識」を得ることができたからです。私も、悲しみのどん底をのたうち回ることがなければ受け入れることはできなかったと思います。
佐藤さんとゆっくりお話ができたら嬉しいです。
投稿: 小林正幸 | 2016/11/28 10:35