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2016/11/28

■啓発と気づき

「愚民」や「家畜」という言葉は、他者を指していう言葉としては共感できませんが、自らを省みての戒めの表現としては、私は受け入れることができます。
いまの私たち(私というべきかもしれませんが)には、世界はなかなか見えてきませんし、制度や権力に依存して生きている面が少なくありません。
ともすれば、何も考えずに、言われるとおりに生きているのが楽であることもあります。
小林さんと伊藤さんは、それに対して檄を飛ばしたとも受け取られます。

たしかにいまの社会は、広がりすぎて、理解するのは簡単ではありません。
原発にしろTPPにしろ、その正体をつかむのは難しい。
そうした社会の中で、自ら思考しながら生きていくのは、それなりのエネルギーが必要です。
その結果、気が付いてみれば、「愚民」「家畜」と言われるような生き方になってしまっているのかもしれません。
16世紀にラ・ボエシが「自発的隷従論」で書いたように、私たちは隷従をやめるだけで解放されるはずなのですが、それはそう簡単なことではありません。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#005

しかし、「愚民を啓発する」という発想は、あまりに民主主義的ではありません。
なぜなら民主主義とは、一人ひとりが主役であって、誰かのために存在するわけではないからです。
いうまでもありませんが、「啓発」や「啓蒙」は、誰かの視点で行われますから、ある意味での「支配」につながります。
そこには「知の階層」があり、それは「社会的地位の階層」(社会秩序)につながっています。
〈知は力なり〉というように、知が支配構造を規定していきます。
「知の格差」がある閾値を超えると、社会秩序を組み替える動きが起こります。
しかし、そこでも同じように、知の階層が作動しますから、それは「革命」にはつながらないでしょう。
それに対して、民主主義の理念は、知の階層を基本にはせずに、個人の、あるがままの知を基本にします。
それが「個人の尊厳」ということではないかと思います。
そこには、「知の階層」はありません。
しかし、それゆえに、社会の構造原理は大きく違っていくでしょう。
それこそが「革命」ではないかと思います。
残念ながら、個人の尊厳を基本にした社会秩序の原理は、まだなかなか見えてきません。

なにやら難しい議論になってきてしまいましたが、手段的な概念である「啓発」や「啓蒙」に代わるものは何でしょうか。
それはたぶん「自覚」や「気づき」です。
「自己啓発」という表現もありますが、大切なのは「内発的な自然の気づき」です。
それはたぶん「体験」から生まれます。

民主主義は「力」を基軸に置くか、「気付き」を基軸に置く蚊によってまったく違ったものになります。
多数決で決定する民主主義は、まさに個人を力の単位にしていますが、「気づき」は他者とのつながりの中で生まれ、作動します。

アーノルド・ミンデルは、自分や他人の内側で起きている経験についての気づき/自覚を重視する「ディープ・デモクラシー」を提唱しています。
そこでは、結果ではなくプロセスが重視されます。
それに関しては明日、改めて書いてみようと思いますが、啓発よりも気付きを起こしていくことが、いま求められていることではないかと思います。
であればこそ、私は、デモよりもサロンを大事にしているのです。

12月3日にはリンカーンクラブのサロンが湯島であります。
よかったらご参加ください。

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