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2016/11/25

■節子への挽歌3371:節子の日記

節子
椿山荘で集まりがあったのですが、その帰り、江戸川橋の駅に向かって歩いていたら、目の前のビルに大きな字で「高橋書店」と書いてあるのに気づきました。
懐かしい名前です。
節子は、高橋書店の日記帳で毎日日記をつけていたのです。
それを思い出しました、

その節子が残した日記帳は、いまもたくさん残っています。
節子は私に会う前から日記をつけていましたが、その日記も私の手元に残されました。
節子が逝ってしまった後、いつか落ち着いたら読もうと思っていましたが、読もうという気はなぜかまったく起こってきません。
夫の私がそうなのですから、たぶん娘たちも読むことはないでしょう。
ですから、私がいつかすべてを焼却しようと思っています。
でも今は、まだその気にはなれません。

私も日記は子ども時代から書いていました。
しかし、私の場合は、節子と一緒に暮らすことを決めた時に、それまでの日記はすべて焼却しました。
節子に見られて都合が悪いことが書いてあったわけではありません。
それまでの人生を、すべて白紙にして、節子と新しい人生を描き出そうと考えたのです。
そして、節子と一緒に暮らし始めてからは、私は日記をやめました。
時々、節子の日記に特別出演で書いたことはありますが。

ホームページを作成してからは、そこにかなり克明に私の人生記録を残すことにしました。
いまもそれは書き続けています。
最近は、この挽歌のブログが日記代わりになってしまいましたが、ホームページでも週間記録を書いています。
ほとんど誰にも読まれないでしょうが、書くことで自分が整理できるのです。
整理して、それがなんだと思わないこともありませんが。

時々、昔の言雄思い出すことはありますが、そんな時に、ホームページの週間記録を読むことがあります。
ところが、読んでみると、私の記憶とはかなり違うことが書いてあることがあります。
記憶とは、以下にいい加減なものか、時々思い知らされます。
節子の日記を読んだら、私の記憶に残っている節子とは違う節子に出会えるかもしれません。
最近、私のなかでは、どんどん節子が美化されているようなので、幻滅するかもしれません。
でもそれもまた、面白いかもしれません。

そんなことを考えながら、帰宅しました。

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