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2016/11/29

■気付きを生む民主主義

民主主義という言葉は多義的に使われますが、物事の決め方という捉え方について考えてみましょう。
集団での物事の決め方には、決定と合意があります。
決定とは、集団としての一つの意思を明確にするということで、決定されたことは全員が従わなければいけません。
日本の政治で行われているのは、この方式です。
そして、そこで採用されているのが多数決原理です。
国会は、議論の場というよりも決定の場として捉えられています。
ですから、政権党と国会の第1党が違っている時には、「ねじれ国会」と言われ、物事がなかなか決められずに、それが問題だと言われていました。
決定が国会の目的だとすれば、「決められない国会」は問題視されるでしょう。

しかし、国会での決定に時間がかかることは悪いことなのか。
私はまったくそう思っていません。
時間がかかるには、それなりの理由があるはずです。
ねじれ国会は、私はとてもいい形だと思います。
そこでは熟議が行われ、さまざまな視点で議論が深められるからです。

宮本常一は、「対馬にて」という論考で、村の取り決めに関する興味ある報告をしています。
有名な話なのでご存知の方も多いと思いますが、村で取り決めをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でも話しあうという話です。
参加者の異論がなくなった時点で、話し合いは終わり、終わった以上はそれを破る人はいないというのです。
決定事項に従わなければいけないという言い方もできますが、多数決での決定の場合とは、その意味合いは全く違うような気がします。

これは何も日本に限った話ではありません。
北米のイロコイ族などの先住民の部族の集まりもそうだったようですし、ネルソン・マンデラの『自由への長い道』には、南アフリカの部族の集まりでは、全員が話すまでは決定が下されない、と書かれています。
いずれも、多数決で決定するのではなく、とことん話すことで、全員の合意が生まれることを大切にしているのです。

決定と合意。
同じように聞こえるかもしれませんが、前者は結果を目的にし、後者はプロセスを目的にしています。
前者では異論があっても決定に合わせなければいけませんが、後者はプロセスの中で自らの考えが変わっていくのです。
つまり、昨日の記事の言葉を使えば、自覚や気づきが内発的に生まれてくる。
ですから、たとえ決定事項が文字にしたら同じであっても、その意味内容は微妙に違うのです。
しかも、プロセスを通して、人間関係も変わってくるでしょう。

これこそが「気付きを生む民主主義」です。
マンデラはこう書いています。

いつまでも要を得ずにとりとめなく話す人がいる。 また、差し迫った問題に直接言及し、単刀直入にずばり議論を始める人もいる。 感情的な話し手もいれば、そうでない人もいる。 民主主義はすべての人に耳を傾け、人として一緒に決断を下すことを意味する。 多数決は異質な考え方だ。 少数派の意見が多数派の意見によって押しつぶされてはならない。 同意しない人々に結論を押しつけてはならない。 もし合意に至らなければ、別のミーティングを開くことになるだろう。
ここには、「愚民」は登場しません。

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