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2016/11/27

■「気づきのない民主主義は独裁政治」

「愚民民主主義?」の続きです。
「愚民」を啓蒙することが必要だと、19日のゲストのおふたりは話しました。
その言葉に、会場から「目線が高い」という声がありました。
目線の問題でしょうか。
私には、それ以上に「人間観」や「人間性」の問題のように思います。
同時に、「民主主義」の捉え方の問題でもあると思います。

カリフォルニア大学のへンドリックス教授は「気づきのない民主主義は、ある種の独裁政治である」と言っています。
私流に言いかえれば、「民主主義とは気づきあうこと」です。
つまり、自らの生き方の問題が問われているのだろうと思います。
大切なのは「他者の啓蒙」ではなく、「自らの知性」を磨くことです。
そうすれば、他者を愚民と捉えるのではなく、その思いをしっかりと受け止める姿勢と理解力が生まれるでしょう。
人は「言葉」によって伝え合っているわけではありません。
その「言葉」、もしくは「無言」の奥にある、メッセージを読み取ることこそが、コミュニケーションです。
言葉のやりとりだけなら、「愚民」ならずとも「機械」にさえできるでしょう。
知性があれば、人を「愚民」扱いはしないでしょう。
そして、現場で生きている人たちから、たくさんの学びを得ることができるでしょう。
私が、会場で、あえて「視点を変えれば、おふたりこそ愚民」と発言したのは、その意味です。
少しばかりの知性があれば、それに気づいてくれたと思いますが。

私たちは、意識としては、他者の意見にも耳を傾けようという姿勢を持っています。
社会で生きていくためには、自分だけが正しいとは限らないことを知っているからです。
しかし、実際には、私たちは、自分の考えを基準にして考えがちです。
そして、それを理解してくれない人たちに、なんとか理解させたいと思うこともあります。
たとえば、私は「原発は人間が管理することのできない危険なもの」であり、「運転の安全性」は問題の本質ではなく、「原発そのものの安全性」を問題にすべきだと思っています。
そう確信しているために、運転の安全性を議論している人に会うと議論を放棄しがちですし、そういう人の考えを変えたくなります。
つまり、「啓蒙」したくなる。
しかし、そこには私が正しいという思い込みがあるわけです。
それでは議論は始まりませんし、そもそも私自身が「啓蒙」されることはありません。
頭ではわかっていますが、私自身、こうした過ちを犯していることは少なくないでしょう。

そこに、民主主義のむずかしさがある。
いまの日本の政治に異議申し立てをしないで、政権支持をしている人たちは、満足しているのでしょうか。
なぜ行動を起こさないのかと、私も思います。
しかし、起こさないのには起こさない理由がある。
いや、ある意味では起こしているのかもしれません。
それを無視して、「愚民」と決めつけたり、「怒り」を感じても、何も始まりません。
まずは自らが信ずることに従って、行動を起こすことです。
もしかしたら、多くの国民はすでにそうしているのかもしれません。
それが見えるだけの知性と気づきの姿勢を、私は持ちたいと思っています。
すべての始まりは、自分からですから。

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