■節子への挽歌3362:我欲にうずもれたストレスフルな生き方
節子
胃がきりきりと痛いです。
今日は、とてもストレスフルな1日でした。
なかなか平安はやってきません。
今月を越せれば何とかなるというような気分ですが、そういえば、節子と一緒だった闘病の時も、こんな気分だったでしょうか。
しかし、あの頃は、なぜかストレスはなかったような気がします。
1日1日を精いっぱいに生きる。
それが節子の生き方でした。
愚痴は言わずに、毎日を精いっぱいに生きて、1日を過ごせたことに感謝する。
そして、それは言うまでもないことですが、精いっぱいに生きた一生に感謝する生き方につながっていく。
そこには、ストレスなど生まれない。
節子からは、それを学びましたが、それはやはり自らが当事者にならなければ、つまり生の先が見えてこなければ、なかなか実感はできない。
欲があるから、ストレスが生まれてくる。
そこがたぶん節子と私の違いでしょう。
まだ、我欲から抜けられない。
抜けているようで、未だに我欲の塊なのかもしれません。
だからストレスが生まれてくる。
どうも私は、毎日毎日を粗雑に生きている。
精一杯ではなく、先延ばしの生き方に陥りがちです。
本当は先がそうないのに、それが見えてこない。
だから我欲からも解放されない。
節子と私の違いは、それかもしれません。
私にはまだ、生の先が見えてこないのです。
だから毎日をこうやって、無駄に過ごしている。
だからこうも多くのストレスに襲われているのかもしれません。
それでも、一つひとつ、山は越えられています。
これもまた、節子が教えてくれたことです。
小さな山を越えていけば、いつか大きな山も越えられている。
節子はいつも前向きな人でしたから、実直に小さな山に向かっていました。
とくに病気になり、そこから抜けられないと感じた時からは、そうでした。
自分の独力で山に向かい、他者には、私にさえも、多くを依存しなかった。
そして、ストレスがあってもおかしくないのに、それを感じさせなかった。
そこから感ずることはたくさんあります。
でも、なかなかそういう生き方にはなれないのです。
闘病で大事なのは、つまり人生で大事なのは、小さな山を越えることです。
それはわかっているのですが、我欲からは自由になれていない。
その結果、毎日がストレスフル。
ストレスがたまるのは、自分の生き方が誤っているからでしょう。
淡々と山に向かえば、ストレスなどたまるはずがない。
もっと我欲を、いや、我を超えなければいけません。
あの頃の節子を思い出さないといけない。
ところで、目の前の山を次々に越えていったら、どこに着くのか。
節子はどこに着いたのか。
彼岸について平安を得た、そうなのかもしれません。
生の向こうにあるのは、決して死ではない。
最近、そのことがよくわかってきました。
それがわかっているのに、我欲のおかげで、ストレスに悩まされる。
我欲を持たなくとも、平安だった、あの頃は、もう戻ってはこないでしょう。
しかし、我欲を捨てて、ストレスもない生き方に戻りたい。
どうしたらそうなれるのか。
これは実に難問です。
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