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2016/11/24

■節子への挽歌3370:節子のまなざし

節子
あまり意識したことはないのですが、なんとなく「節子のまなざし」を感じながら生きていることに、最近気づきました。
おそらく少しさびしさがうすれたのは、そのせいかもしれません。
それに毎日何回かは、いまも節子の声をかけています。
朝、起きて、私が最初にやることは、節子の位牌がある仏壇にロウソクを灯し、水を供えて、線香をあげることです。
そして、節子に挨拶し、般若心経を唱えます。
その日の気分によってですが、節子に感謝の言葉を添えることもあれば、不満をぶつけることもあります。
そして私の1日が始まるわけです。

挽歌を書くときにも、それなりに節子と対話します。
挽歌を書く時間は短いですが、その前後に少し節子と対話することもあります。
就寝する時には、一応、節子に挨拶をします。
真夜中に目が覚めて、ふと節子を思い出すこともある。

そんなわけで、少なくとも1日3度は節子と話しています。
しかし、それだけではありません。
最近なんとなく、「節子のまなざし」を感ずることがあります。
うまく説明できませんが、節子がいつも私のしぐさを見ているような気がするのです。
だれかと話している時に、突然それを感ずることもあります。
一人で本を読んでいる時に、突然に、その気配を感ずることもある。
まあ、そんなわけで、いまの私は常に節子に見張られているともいえるわけです。

ですから、節子を裏切るわけにはいきません。
こういう書き方をすると誤解されそうですが、
節子を裏切るわけには行かないという意味は、誰かを愛することができなくなったとか、そんな話ではありません。
自分に素直に生きる生き方を裏切らないという意味です。
節子は、私が私自身に嘘をつかないからこそ、私を信頼してくれていました。
節子は、いつも、私が私らしく生きることを支えてくれていました。

もしかしたら、最近、その「私らしい生き方」がちょっと崩れているのではないかという気が、しないでもありません。
その生き方に対して、節子はもしかしたら、不満なのかもしれない。
それで、最近少し「節子のまなざし」を感ずる度合いが増えたのかもしれません。
この挽歌を書きながら、それに気づきました。
そういえば、最近少し私自身、妥協が多くなってきています。
妥協と寛容さを混同しているのかもしれません。
それはもしかしたら、究極の仲間の節子がいないからかもしれないのですが。

なにやら矛盾した内容の挽歌になってしまいました。
これもまた節子のまなざしのせいかもしれません。
困ったものです。

今日の朝は、11月にも関わらず、みぞれ降る寒いの朝です。
そのせいか、早く目覚めてしまいました。

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