■節子への挽歌3359:沢蟹の思い出
節子
明け方、脚がつってしまい、その痛さが1日中残って、いまもまだ歩くと痛いです。
この週末、いろいろと用事が重なっていささか疲労したせいかもしれません。
テレビで、歳をとって身体が老化しているのに、それを意識しないために階段から落ちたり、けがをする人が多いという番組をやっていましたが、まさに私もその典型的な事例なのでしょう。
身心がバランスしていないのでしょう。
そんなこともあって、今日は在宅で過ごしました。
めずらしく誰からも電話はなく、平安な1日でした。
今日は休日と決めていましたので、気になっていることは山のようにありますが、それを忘れて過ごしました。
こういう日を大切にしているので、まあなんとか元気を維持できているのでしょう。
今日やったことは、沢蟹の水槽の手入れくらいです。
冬になったせいか、動きが悪いのですが、3匹の沢蟹たちは元気にしています。
庭の池に放した沢蟹たちは、その後、一度も出会えていませんが、冬眠に入ったのかもしれません。
もっとも、沢蟹は冬眠するのかどうかも知りませんが、水槽の沢蟹は元気で冬を越させたいと思います。
沢蟹を見ているとなぜか幸せな気分になります。
なぜかはわかりませんが、昔からそうです。
それを本気でわかってくれたのは、節子だけでした。
ですから、沢蟹の向こうにも節子を感ずるのです。
一緒に敦賀の川で、沢蟹を捕まえに行ったことが思い出されます。
それだけではありません。
なぜか、滋賀の観音さんをお参りに行くと、そこで沢蟹によく出会いました。
一番印象に残っているのは、春先に行った、小さな集落の観音堂の近くで、沢蟹から子どもがわっと広がっていた風景です。
また、滋賀の鶏足寺の参道を歩いていたら、道を一匹の小さな沢蟹が横切ったこともあります。
水も流れていないところでしたので不審に思いましたが、誘惑に勝てずに、捕まえてしまい、自宅まで連れてきてしまいました。
しかし、その沢蟹は半年ほどで死んでしまいました。
あれは、節子と最後に鶏足寺に行った時でした。
これまた不思議ですが、それ以来、言い方を変えると、節子がいなくなってからは、滋賀でも敦賀でも、なかなか沢蟹に出会えなくなってしまったのです。
一昨年は、義姉夫婦に頼んで、前にはたくさんいたところにわざわざ連れて行ってもらいましたが、沢蟹はもういませんでした。
私にとって、沢蟹は、とても特別の存在なのです。
ちなみに、沢蟹の水槽は節子の位牌壇の隣に置いています。
節子にも見えるように、です。
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