■節子への挽歌3397:読み合う関係
節子
目を使わないほうがいいのでしょうが、結局、昨夜も本を読んでしまいました。
入院中に、オルテガの「大衆の反逆」を読み終えていたのですが、昨日は入院前に読みだして止まっていた「向う岸からの世界史」を読みました。
1948年のウィーン革命に関する書ですが、西欧史学の翻訳的な研究ではない、独自の視点からの論考です。
なぜこの本をまた読む気になったかと言えば、それは「大衆の反逆」に19世紀にヨーロッパは変わったというオルテガの指摘に、この本を読もうと思った時のことを思い出したからです。
まあこの辺りは、時評編のテーマです。
しかし、節子は、こうした話し相手にはいつもなってくれました。
ただただ聴く一方でしたが、人は聴いてくれる人があれば話せますし、話していると考えることができます。
いまはそうした相手がいないのがさびしい。
本を読んでいても、考えは動き出しません。
不思議なもので、別に意識したわけではないのに、読んでいる本がつながってくることがあります。
たとえば、机の上に取り残されていた「善い社会」という、20年以上前の本を最初の部分だけ読んだのですが、これもまさにオルテガの問題提起につながっている気がしました。
字が小さく分厚いので躊躇はありますが、今日から読みだすつもりです。
短い期間でしたが、世間と遮断され病院にいたおかげで、生き方を少しだけ相対化することができました。
最近の私に欠けていたのは、もしかしたら、自らを相対化するための時間だったのかもしれません。
本を読むことは、自分を相対化する機会を与えてくれますが、自分に都合のいいように読み解いてしまうことも可能です。
その時、思ってもいない視点からの問いを出してくれる人がいないと思考は広がりません。
節子との会話は、いまとなって思えば、とても創造的でした。
いつも、私の独りよがりの世界を相対化してくれました。
節子はウィーン革命などは知らなかったでしょう。
本もあまり読まない人でした。
しかし、節子の病気が再発し、ほぼ寝たきりになった時、私が隣で、ネグリを読んでいるのを咎めたりはしませんでした。
節子は、私が本を読み、自然を読み、寺社を読むのとは違う形で、世界を読んでいたのです。
私を読んでいたのかもしれません。
私もまた、節子を読んでいた。
そんなことをお互いに意識したことのないまま、その関係は終わりました。
読み合う関係だった節子はいなくなってしまった。
大切なことは、往々にして、なくなってから気づくものです。
でも、だからといって、遅すぎたわけではありません。
その価値に気づくことができれば、世界は変わります。
そして、気づいた価値は、消えることはない。
今日は、節子の位牌の横で本を読もうと思います。
もっとも天気がとてもいいので、庭の掃除をしだしてしまうかもしれません。
節子がいたら、必ずそうするでしょう。
節子的に過ごすか、私的に過ごすか、まあ成り行きに委ねましょう。
久しぶりに、ベランダに布団を干しました。
入院したということが伝わったおかげか、電話もあまりなくなりましたし、メールも少ないです。
ニュースも最近はあまり見ていませんし、世間から離れていると、太陽の陽を素直に受けられます。
| 固定リンク
「妻への挽歌17」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌3500:庭の整理という大仕事(2017.04.05)
- ■節子への挽歌3498:手賀沼公園がにぎわっていました(2017.04.02)
- ■節子への挽歌3497:桜の季節がきました(2017.04.01)
- ■節子への挽歌3496:節子がつなげてくれた縁(2017.03.31)
コメント