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2016/12/07

■節子への挽歌3382:語る相手がいることの幸せ

節子
久しぶりに岐阜の佐々木さんが来ました。
とてもお元気そうでしたが、今年は佐々木さんにとってはとてもつらい1年だったと思います。
人生には、喜びとともに、悲しみもつきものです。
私自身は、最近はその2つの区別があまり気にならなくなっています。
いずれも、人生そのものだと思えるようになってきました。

もうひとつ最近感じていることがあります。
喜びにしろ悲しみにしろ、「話し」たくなるものと心身に閉ざしたくなるものがある。
そして、身心に閉ざしたい喜びや悲しみは、その一方で、だれかに「語り」たくなるのです。

「話す」と「語る」は、意味が大きく違います。
「話す」は「放す」です。
悲しみや喜びを、自らから放す(離す)ことで、自らを解き放そうとする。
それに対して、「語る」は「象(かたど)る」と言われるように、何かを生み出すのです。
そのために、「語る」相手は、その悲しみや喜びを、一緒になって引き受けてくれる人でないといけません。
いいかえれば、重荷を一緒に背負ってもらうことになる。
ですから、そう勝手に語ることはできません。
そして、語った以上は、相手の語りも引き受けなくてはいけません。
そういう関係は、そう簡単にはつくれません。

「話す」ことは、自然とできることです。
しかし、喜びや悲しみの奥にあるものまでは、放せません。
言葉で話しても、身心に残っているものがある。
その「残っているもの」を、どう語っていくか。
つまり、誰かと分かち合っていくか。
それが人生なのかもしれません。
しかし、語る相手を見つけることは、そう簡単なことではない。

戦争体験を語らない人たちの心情が、最近少しわかってきました。
人は、話すことはできても、語ることは難しい。
最近、つくづくそう思います。
語る相手がいたことの幸せを、改めて思い返しています。

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コメント

語る相手、語り合い共に歩むことができる相手、それは私には魂のつながりがある人、だと思えます。真の意味の、純粋な愛のつながりがある魂と魂。

この世にあって物質的な言語で語るだけではなく、顕と幽の間の無言の語り合いもあります。

言語は極めて限られたものでしかなく、真意を完全に伝えることは不可能です。

佐藤さんには、魂のつながりがあり無言の語り合いができる人がいらっしゃいます。そのつながりは宇宙最大の力です。切れることはありません。

投稿: 小林正幸 | 2016/12/08 10:24

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