■全体が見えなくなってきています
たとえば今朝の朝日新聞朝刊の1ページ目には、
「首相 「不戦の決意」強調」
というトップ記事に並んで、
「辺野古 国が工事再開」
という大きな見出しがあります。
今日に限ったことではないのですが、
個々の報道からのメッセージと、さまざまな報道全体からのメッセージと、齟齬を感ずることが最近とても多いような気がします。
不戦の決意を強調した政府が、一方では戦争に向けての軍事力を強めるために沖縄の人たちの平安な生活を踏みにじっている。
安倍首相は、戦争をしたのか、したくないのか。
まともな思考力を持つ人であれば、悩んでしまうでしょう。
最近、30年程前にアメリカで話題になった「善い社会」という本を、私としてはかなり丁寧に読みました。
2回読み直したのです。
そこで1970~80年代のアメリカ社会のことがていねいに語られていますが、
そこに、全体が見えなくなってしまったことの懸念が指摘されています。
全体が見えないということは、あるところだけを取り出して、判断を決めるようになるということです。
全体を見えない人たちは、右往左往しますから、いかようにも操作できるのです。
しかし、理解しがたい矛盾の言動は、安倍さんだけではありません
私のまわりの多くの人がどうも矛盾する言動をしているのです。
たぶん私もまたそうなのでしょう。
全体像が見えなくなると、人は論理的には個別の判断しかできなくなる。
だから、自らの矛盾さえ気づかなくなる。
そして矛盾があっては落ち着かないので、自分でその矛盾を編集して、自分が支持できる安倍政権を虚構してしまうわけです。
辺野古のことも高江のことも、みんな「不戦の決意」につなげてしまう。
人の命が大切だと言いながら、死刑を執行してしまうようなものです。
沖縄の現実を見れば、不戦の決意の意味は見えてくる。
それは、選ばれた人たちのための不戦や平和であり、その実現には弱い人たちを押さえつけることがセットにされている。
しかし、全体が見えない中で、そう考える人は少ないでしょう。
そもそも、恐喝による不戦は、すでにその出発点において、戦争の実行です。
でも多くの人はそうは思わない。
新聞は、それでも「不戦の決意」と「辺野古工事再開」とが並んで表記されますので、全体像とは言いませんが、矛盾や多様さが目に入ってきます。
しかし・ネット情報に依存している人は、個別情報が個別にしか入ってきませんから、ますます個別の世界で情報を受け取ることになる。
全体像はますます見えないでしょう。
そうしたことが、私たちの意識をどう変えていくか。
考えると恐ろしい気がします。
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コメント
会社の中で仕事をしていると、全体が整合した動きなどしていないことを嫌というほど思い知らされます。
佐藤さんもそれを経験した上で書いていらっしゃるはずです。
政府も役人も日本全体も、全体整合などありません。バラバラの利益共有グループが利己的に行動するだけです。自分たちさえ良ければいい。善意の人でさえ、そうです。だから、その善意の人たちでさえ批判し反目し罵り合い、崩壊して行きます。
利益共有グループで固まろうとするから、依存するから、間違う。独りで思考し、選択し、行動することで情報の偏りも避けられて行く。いずれにしろ完全は成就できません。
昨日のオープンサロンでも出ていたことですが、独立した個人が緩く繋がり合う。個人と個人が真の信頼に裏打ちされたつながりを持てば、自然にそうなるはずです。
連帯も団結もグループ全体主義の強制です。私は嫌いです。
投稿: 小林正幸 | 2016/12/29 06:38