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2016/12/19

■節子への挽歌3395:居場所がないのではなく、自分がいないのだ

節子
まあ昨夜から今日にかけて、いろいろとありましたが、ほぼ落ち着きました。
FBではたくさんの人がエールを送ってくれ、大事にしろとか無理をするなと言ってくれますが、まあそれはそれとして、むしろ心にひびくのは、お互いもうぼろぼろだからね、とかもうそろそろ終わりだよ、と言われた方が心にはすとんと来ます。
そう言ってきたのは、小宮山さんと武田さんですが。
まあふたりとも、私と同じでそろそろ終わる仲間ですから、よくわかっている。
身体は朽ちるものであり、死は本人にとっては決して悲しいものではないのです。
節子が、もうそろそろ逝ってもいいかと言っていた言葉の意味が最近ようやく心に落ちてきました。
人は、自らのために生きているのではないのです。

ところで、たぶん今日も、病院では私がいた時と同じような時間が進んでいるのでしょう。
そう思うと、とても不思議な気がします。
人は空間を生きているのではなく、時間を生きているというようなことを、ヴィクトール・フランクは書いていますが、時間と空間は同じものかもしれません。
しかし、いまもあの「病院の時間」は、同じように進んでいて、そこにいる人たちを支えているわけです。
その場所から移れたことを、活かさなければいけません。
それが退院したものの考えることなのでしょう。
人の居場所とは、どこなのか。
これは実に面白いテーマです。
今まで「居場所がない人が多い」と、軽々に考えていましたが、それは間違いだったことに、この数日の体験で気づきました。
「今ここ」が、居場所だと考えれば、居場所のいない人などいない。
問題は「場所」ではない。
やっとそれに気づきました。

なにやら小難しいことを書きましたが、今日は実は何もできずにいろいろと考えていたのです。
退院時にもらった注意書きを忘れていて、今日になって読んだら、入浴はやめろとかいろいろと書いてありました。
昨日は、帰宅後すぐに入浴し、目をつかいすぎてしまい、ちょっと問題を起こしていたので、今日は瞑想の日にしたのです。
その瞑想の結果の気づきが、「居場所がないのではなく、自分がいないのだ」と言うことです。
まだ仮説でしかないのですが。

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コメント

ううむ、佐藤さんらしい、というべきか、仏教によく出てくるような言葉ですね。先日の、人はどこからもこず、どこへも行かず、ただ今ここにいるだけ、もそうでしたが。

ブラームスの問いの答えはもうすでに与えられています。
人の本質は霊であり、霊の世界から来て、永遠に生きる霊としての自らを鍛えるため、試練を受け学ぶためにこの物資世界にほんのひと時生き、朽ちた肉体を脱ぎ捨ててまた霊の世界に帰る。
極めてシンプルです。
物理学でも、複数の世界が同時に同じ場所にパラレルに並存している可能性を示唆しています。私たちがそれを認識できないのは、バイブレーションのレベルが異なるためであり、物資の存在の本質は単なるバイブレーションで実体はないという物理学のある認識と完全に符合します。

仏教は人の死後については扱えないという意味で宗教ではありません。思想か人生哲学でしかない。シッダールタは弟子に人は死んだらどうなるのか問われて答えられませんでした。その時の答えは、私には単なる詭弁と逃げでしかありません。

事実は、仏教の使うようなそんなあいまいな言葉の概念のもてあそびの世界ではなく、もっとシンプルで確固として理性が納得でき、美しいものです。愛に溢れています。ダイナミックに変化し続けるという意味で無常ですが、仏教の醸し出す無情でモノトーンで殺伐で寂寞とした認識の世界ではありません。山のような経文も必要ありません。キリスト教神学と同じ、所詮人間が頭だけの理屈をこねくり回してたくさんの矛盾をはらんだままで拵えたものです。

投稿: 小林正幸 | 2016/12/19 23:03

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