■節子への挽歌3387:人はただそこにいるだけ
フェイスブックで、一条さんの「儀式論」を紹介したら、それに関連して、いくつかのコメントをもらいました。
そのひとつは、魂の人、小林さんからのものです。
彼はこう書いてきました。
ブラームスが作曲する時、必ず神に問いかけた3つの問い。
この答えが得られれば、葬式が必要か否かは明らかになります。
我々はどこから来たのか?(生まれる前はどこにいたのか?)
なぜこの世に生きているのか?
この後どこへ行くのか?(死んだ後どこへ行くのか?)
彼の意図は別にして、それに関連して私もコメントを返しました。
横道の文章を除いて再録します。
人はどこから来て、どこへ行くか。
これはよく語られる問いですが、私にはあまり意味を感じない問いです。
人はどこからも来ずに、そして、どこにも行かずに、
ただここにいるだけだと、私は思っています。
儀式や儀礼は、文化の現れです。
一条さんも、儀式は文化と置き換えてもいいと言っています。
文化とは何かは難しいですが、そのひとつの象徴的捉え方が儀式です。
朝、起きて歯を磨くのも、仏壇に祈るのも、人に会って挨拶をするのも、儀式です。
儀式も儀礼も、そういう捉え方を、おふたりはしているように思います。
葬儀はいまどんどん簡略化しています。
直葬やゼロ葬を提唱している人もいます。
しかし、私たちが折角築きあげてきた、死への文化を経済的な理由や忙しさを理由に、否定するのは悲しいです。
節子の葬儀を行って、それを強く実感しました。
葬儀を他者任せにしてきたことへの反省です。
それは、自らの生き方を他者任せにしていることとつながっています。
他者と共に生きることと、他者任せとは正反対のものです。
共に生きるためには、儀式、文化や社会のマナーが大切です。
儀式というと何やら形式的な行事を思い出すかもしれませんが、一条さんが本書を書いた動機は、人間とは何かという問いからです。
彼の問いかけは、こうです。
私たちはいつから人間になったのか。
そして、いつまで人間でいられるのか。
一条真也さんは、「儀式論」の中で、古代の礼には次の3つの性格があったと紹介しています。
「神霊と交信するツール」「人間関係を良好にする潤滑油」「自他を変容させる通過儀礼」。
私の言葉で言い直せば、「いまここで生きていくための仕組み」です。
平たく言えば、世界を広げる仕組みです。
人はただそこにいるだけ。
これが最近の私の、とりあえずの考えです。
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