■愚民と大衆
今日は「愚民」と「大衆」についてです。
「アメリカ人の生活における個人主義とコミットメント」という副題を持つ、ロバート・ベラーの「心の習慣」を読み直しているのですが、そこには建国時のアメリカ国民の生き方がなぜ変わってきたのかが、とてもわかりやすく書かれています。
この本は、200人以上のアメリカ国民のインタビューをベースに書かれていますので、とても生々しく、伝わってくるのです。
日本でも最近同じようなスタイルでの社会調査が広がっているようで、昨年私も東大の大学院生のインタビューを受け、その分厚い報告書をもらいました。
たぶんまだその調査活動は続いていると思いますが、日本人の生き方のゆくえを考える上での示唆に富む知見が集まりだしていると思います。
それが果たして「愚民」かどうかはとても興味のあるところです。
先日、テレビの映像の記録プレミアム版を見ていて知ったのですが、マリリン・モンローは自伝でこう書いているそうです。
私は自分が世界中の大衆のものであることを知っていた。 それは、私が才能や美貌に恵まれているからではなく、 大衆以外のどんなものにも、どんな人にも、属したことなどなかったからだ。
彼女は縫製工場の売り子から映像時代のスターとしてスカウトされ、時代を象徴するまでになった、まさに映像の時代が生み出した寵児でした。
朝鮮戦争で戦う戦場の兵士たちを鼓舞する役割まで引受けされ、最後は謎の死をとげました。
私は、「バスストップ」が一番好きな映画でした。
中学生の頃観た映画なので、不正確な記憶ですが、私の「大衆観」にはたぶんある意味での影響を与えた映画です。
まあそれはどうでもいい話ですが、私が「大衆」という言葉を突き付けられたのは、スペインの思想家オルテガの「大衆の反逆」です。
オルテガは、「大衆」をあまり良い意味では使っていません。
大衆とは、指導者に従順で、自分を向上させようという努力を自ら進んではしようとしない人々のことである、と言っているのです。
このシリーズに即して言えば、「愚民」的な捉え方をしているといえるでしょう。
しかし同時に、オルテガは、現代社会を大衆支配の社会と断じ、しかもそこに、危険性だけではなく、大きな可能性を示唆しているのです。
そこに私は、ネグリの「マルチチュード」と同じものを感じます。
民主主義は、多数の支配という意味があります。
もしそうであるとすれば、その多数者を「愚民」として捉えることは、そこに秘められた大きな可能性を切り捨てることにならないでしょうか。
ネグリやオルテガ、あるいはベラーのように、俯瞰的で歴史的な姿勢こそが、いま求められていると思います。
マリリン・モンローがスターになったのは、私は彼女の知性のおかげだったと思っています。
大衆の大きな力を、彼女はたぶん知っていたのです。
そして大衆の賢さと知の豊かさもです。
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コメント
私は自分が世界中の大衆のものであることを知っていた。 それは、私が才能や美貌に恵まれているからではなく、 大衆以外のどんなものにも、どんな人にも、属したことなどなかったからだ。
この『どんなものにも、どんな人にも、属したことなどなかったからだ。』に、彼女の意図したことの本質があるように思います。
エリートや特権階級や、それらに『属した』人間でもない、ひとりの、誰にも隷属しない自由な独立した個人だと。
だから、彼女が言った大衆という言葉は、顔のない集団ではなくてエリートや特権階級ではない一般人の個人だったのではないかと思います。
その独立した個人が神のもとにすべて等しく家族であり兄弟姉妹だという事実を認識したとき、格差や貧困、飢餓、戦争、が無くなります。
この現世の一生だけを見るなら、公平も公正もありません。極めて残酷で不正と不公正ばかりです。
人間の存在の本質が永遠に生きることを認めることができれば、完全な公平と公正があることが解ります。
投稿: 小林正幸 | 2016/12/08 08:59
小林さん
ありがとうございます。
まさにマリリン・モンローが言っているのは、そういうメッセージだと思います。
そして彼女は、それを「無意識的」に意識していたと思います。
大衆は「マス」概念ですが、その実体は表情のある「個人の集合」です。
それこそが「大衆」や「マルチチュード」の本質だと、オルテガやネグリは言っているのだと思います。
投稿: 佐藤修 | 2016/12/08 09:08
佐藤さん、ご無沙汰しております。
『心の習慣』については未読なのですが、心に留めておきたい書物です。
>私は、「バスストップ」が一番好きな映画でした。
私にとっては“帰らざる河”が最も印象的で映画の中で描かれる主人公ケイとモンローを殆んど同一視してしまったまま、今もなかなかそこから抜け出せずにいます。
ゴールド‐ラッシュ(“帰らざる河”)から南北戦争をはさみながら西漸運動(⇒マニフェスト・デスティニー)へと西部の開拓が大きく進展していく時代背景の中で、映画“シェーン”ではやがて西漸運動(新たな主体=開拓農民)の押寄せる波に翻弄されていく牧場主と牧童達やその用心棒である拳銃使い達の予想される末路が描かれていました。
M・モンローは一定の距離を置きつつも或る時は人々に寄り添いながらパラレルにそしてスクランブルに生きた魅力的な存在(女優)でした。
>オルテガは、「大衆」をあまり良い意味では使っていません。
>大衆とは、指導者に従順で、自分を向上させようという努力を自ら進んではしようとしない人々のことである、と言っているのです。
自らの政治的可能性(権能)を未だに自覚せざる「人々」で構成される、現状の「大衆」の或るクラスターを「愚民」と呼ぶことは可能ではないかと思っています。そこで、たとえそうであっても「大衆(愚民)」は反逆することがあり得え、その反逆とは専ら「大衆(愚民)」による剥き出しの生存欲の増大化だとオルテガは分析しているのではないかと私は解釈しているのですが、穿ち過ぎもしくは間違いかも知れません。
>民主主義は、多数の支配という意味があります。
>もしそうであるとすれば、その多数者を「愚民」として捉えることは、そこに秘められた大きな可能性を切り捨てることにならないでしょうか。
>ネグリやオルテガ、あるいはベラーのように、俯瞰的で歴史的な姿勢こそが、いま求められていると思います。
とりわけ「公正性」を意識している人々によって如何に多数が構成され得るかが民主主義の今日的意味ないしは課題だと思っています。しかしながら、殊更にエリート主義を論うまでもなく、例えば、「大衆」から「市民」への構造変換(集合意識化)のプロセスにおいて「愚民」と云った呼称や概念は自然に解消していくものと推測していますが、そこには俯瞰的(歴史的)な見地による考察は本より、個々人が自らの「愚民性」について相対化する段階があってしかるべきではないかと考える次第です。
また、会いましょう。
投稿: 向阪夏樹 | 2016/12/08 16:47
向阪さん
お久しぶりです。
「帰らざる河」は、私も何回も観た映画の一つです。
高校から大学時代は、西部劇ファンでしたので。
あの曲もとても好きです。
私が愚民という言葉に引っかかっているのは、人を「愚かしさ」で評価する姿勢です。
私の尊敬する大学教授は、いつも「学生から学ぶことが多い」と言っていますが、
他者を愚かしいと思う人は、自らの愚かしさに気づいていないだけです。
黒沢明の「七人の侍」で、結局は、社会の主役は表苦笑であることが示唆されています。
向阪さんは、良知力さんの「向こう岸からの世界史」はよまれたでしょうか。
まあそれはそれとして、また湯島にも顔を出してください。
いまはともかく、動き出さなければ悔いを残します。
しかし同時に、改めて理論的な思考を深めることも不可欠だと思っています。
投稿: 佐藤修 | 2016/12/08 17:07