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2017年1月

2017/01/31

■節子への挽歌3430:ちょっと気分が浮揚しました

節子
なにもしないうちに1月が終わってしまいました。
まだ起動できずにいます。
しかし、1月最後の日に、ちょっと元気づけられることがありました。
京都の室田さんが湯島に来てくれたのです。
久しぶりに再会です。

室田さんと知り合ったのは、保育園に関わっていた頃です。
全国私立保育園連盟のある委員会の外部メンバーをさせてもらったおかげで、知り合えたのです。
その後、京都に行った時に、室田さんの保育園も案内してもらいました。
私が、その前に構想していた保育園のイメージに少し重なるところがありました。
もう15年ほど前のことではないかと思います。
その室田さんが、突然連絡してきて、湯島に来てくださったのです。
しかも、室田さんは、その委員会での私の発言を覚えていて下さったのです。
今にして思えば、若気の至り?での、小生意気な発言ですが。
しかし、私の生き方の根幹にかかわる言葉でした。

室田さんは、今年からあることにチャレンジします。
そのお話を、かなり幅広く聞かせてもらいました。
ワクワクするような話です。
私がもう少し若かったらぜひとも参加したい活動です。
実に刺激的な2時間でしたが、それで昨日と今日の午前中の、いささか気の重い話に沈みそうになっていた気分が少し浮揚しました。
世界は、動いていると、思いました。
いや動かそうとしている人がいる。

明日から2月。
動き出そうと思います。
今度こそ。

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■2つのリーダー

塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅱ」を読みました。
第2巻のテーマは「民主主義の罠」。
本の帯に書かれているように、「黄金時代を迎えたアテネの崩壊の足音を手繰り寄せたのは、民主制に巣食うポピュリズムだった」ということが、とてもわかりやすく書かれています。
まるで、いまの世界を描いているような話になっています。
非常に面白かったのですが、なにか割り切れないものが残りました。
本書を読んだ多くの読者は、民主主義に対する評価を大きく減じてしまうのではないかという気がしたのです。
民主主義への信頼感を強く持っている私も、いささかアテネ市民の身勝手さにうんざりしました。

しかし、問題は、市民そのものではなく、市民を扇動する人です。
なぜ人は、人を扇動するのか。

私もある時、一緒に講演した人から、佐藤さんはアジテーターですね、と言われました。
意外な指摘でしたが、たしかに私は、議論よりも行動が大切だと思っていますし、同時に行動するためには議論が必要だと思っていますので、私の話はいささかアジテーションになっているのかもしれません。
ちなみに、その時のテーマは、ソーシャル・キャピタルの話でした。

先日、企業関係者の研究発表会に参加しました。
私がとても共感できる発表があったのですが、隣で聴いていた大学教授がその発表者に関して、アジテーターですね、と感想を話してくれました。
私には、思ってもいなかったコメントでしたが、こういう話もアジテーションなのかと思い知らされました。

塩野七生さんは、「ギリシア人の物語Ⅱ」でこう書いています。
「デモクラツィア」(「民主(衆)政治」)と「デマゴジア」(「衆愚政治」)。いずれもギリシア人の発明になる言葉だが、一見するだけならば別物の政体のように見える。だが、この2つともが「衆」が主役であることに御注意を。
最高決定権は「民」(demos)にあるという点では、民主政治も衆愚政治もまったく変わらない。
「デモクラシー」と「デマゴジー」とは同じコインの裏表で、簡単にひっくり返る。

たしかに、「デモクラシー」と「デマゴジー」を区別するのは難しい。
さらに塩野さんは、民主政でも衆愚政でもリーダーは存在するが、そのリーダーの性質は違うと言います。
民主政のリーダーは民衆に自信を持たせることができる人。
衆愚政のリーダーは民衆が心の奥底に持っている漠とした将来への不安を、煽るのが巧みな人。
つまり、前者は「誘導する人」、後者は「扇動する人」。
コインの表になるか裏になるかは、リーダーによって決まるというわけです。

プラス面に光を当てながら先導していくリーダー。
マイナス面をあばき出すことで不安を煽るアジテーター。
現在のリーダーである、トランプ大統領と安倍首相はどちらでしょうか。

ちなみに、塩野さんは、「今日ならば、デモの指導者もマスコミもウェブも、自覚していようがいまいが、には関係なく、立派に「デマゴーグ」(扇動者)になりうる」とも書いています。
さて、私はどちら的な生き方をしているのでしょうか。
本書を読んでから、少し悩んでいます。


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2017/01/30

■節子への挽歌3429:節子おばあさまに抱かせてあげたかったですね

節子
久しぶりに岡山の友澤ご夫妻と電話でお話をしました。
おふたりとも、お元気そうでした。
昨日、ジュン宛にわが家に手紙が届いたのです。
ジュンの出産を知ってのお祝いの手紙でした。

節子おばあさまに抱かせてあげたかったですね。
満面に笑みを浮かべて天界から眺め見守っておられることでしょう。

友澤さんは、手紙にそう書かれていました。
節子にも報告し、お供えさせてもらいました。

節子に孫を抱かせられなかったというのは、私もそうですが、娘にとっても大きな悔いになっています。
しかし、悔いたところで仕方がありません。
ジュンは、ちょいちょいわが家に来て、いつも仏壇に孫の「にこ」を見せています。

孫の誕生は、わが家にとっては大きな喜びではありますが、
節子がいるといないとでは大違いです。
家族にとっての母親の存在はやはりとても大きいです。
いつもそう思いながら、孫の顔を見ています。

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■カフェサロン「パズルで楽しい人生を」のお誘い

楽しいサロンのご案内です。
日程の調整がなかなかできずに、日曜日の午前中になってしまいました。

最初は認知症予防ゲームの実践者交流会で開催する予定だったのですが、せっかくなので、公開で開催することにしました。
ゲストは、「ハッピーパズル工房」代表のパズル療法士、細田和幸さんです。
細田さんはご自分でいろいろなパズルを開発していますが、昨年はそれを活用した、「脳いきいき! 楽しい介護レク パズル遊び」という本も出版しています。
細田さんは、パズルが認知症予防に大きな効用があるのではないかと考えていますが、それで昨年、私のところに相談にやってきました。
早速、みんなの認知症予防ゲームをやっている実践者のみなさんの交流会で紹介してもらおうと考えていましたが、なかなか日程調整ができずにいました。
「https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%81%84%E3%81%8D%E3%81%84%E3%81%8D-%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%84%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E3%83%AC%E3%82%AF-%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB%E9%81%8A%E3%81%B3-%E7%B4%B0%E7%94%B0-%E5%92%8C%E5%B9%B8/dp/4262145867

今回のサロンでは、細田さんがご自分で開発したパズルを持参し、パズル遊びをやってもらいながら、パズルの効用などについて、参加者と話し合えればと思っています。
日曜日の朝ではありますが、きっと楽しい時間が過ごせます。
みなさんの参加をお待ちします。

ちなみに当日は、午後に、これとは別にサロン「豊かな高齢期をいきることの素晴らしさ」を予定しています。
もしご関心とお時間があれば、そちらにもどうぞ。

○日時:2017年2月26日(日曜日)午後10時~12時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「パズルで認知力アップ」
○問題提起者:細田和幸さん(「ハッピーパズル工房」代表:パズル療法士)
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com


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2017/01/29

■2つのエピソード

塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅱ」がやっと発売されました。
毎年年末の恒例行事が、塩野さんの本を読むことですが、今年は年初発売になり、今朝届いたので、読みだしました。
読み終えたかったのですが、いろいろあって、残念ながらまだ第1部しか読めていません。
しかし、その第1部の最後にあるペリクレスのエピソードは、とても示唆に富んでいます。
簡単に紹介するとこんな話です。

ある時、公務中のペリクレスに付きまとって、口汚く非難を浴びせつづける市民がいた。彼は、夜遅くになって公務が終わって、灯りで道を照らす召使を一人連れているだけのペリクレスに向って、批判・非難・中傷の数々を浴びせつづけた。家に帰り着いたペリクレスは初めて口を開いた。それは、男に向けられたのではなく、召使に命じた言葉だった。「その灯りを持って、この人を家まで送り届けてあげるように」。

ペリクレスはいうまでもなく、民主政治と言われる時代のアテネのリーダーで、「ギリシア人の物語Ⅱ」のテーマである「民主制の成熟と崩壊」の、成熟時代の主役です。
この話を読んで、もう一つ思い出した話があります。
韓国の禅僧の法頂さんが書いていた話です。

ある日、人里離れた山寺の老和尚が、夜中に用を足し、戻りがけに後ろの方に人の気配を感じた。みると、そこに、米蔵からお米を一俵盗み出して背負ったものの、その重さで立ち上がれない泥棒がいた。老和尚は後ろに回って泥棒がもう一度起き上がろうとした時、そっと押してあげた。やっと起き上がった泥棒がひょいと後ろを振り返った。 「何も言わずに背負っていきなさい」 老和尚は泥棒に低い声で諭した。翌朝、僧たちは昨夜泥棒が入ったと大騒ぎをしていた。でも老和尚は何も言わなかった。 それ以来、その夜のお客様はその山寺の熱心な信者になったという話である。

私が考える民主主義の理念は、老和尚の生き方です。
ペリクレスにもあこがれますが、私にはアテネには民主政治はあっても、民主主義はなかったと思っています。
ペリクレスは、ソクラテスと会いながらも友人になれなかったことも、塩野さんは本書で説明してくれています。
それを読んで、法頂さんの本を思い出したのですが。

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■節子への挽歌3428:見返りのない贈与

節子
見返りのない贈与ができることこそが、最高の至福であることは、間違いありません。
しかし、見返りのない贈与をすることはとても難しく、その機会を得ることはそうはありません。
夫婦や親子は、そうした関係を持ちやすい存在ですが、それでもそれなりに難しいものです。
昨日、湯島でサロンをやっていて、贈与が話題になりました。
そのやりとりを聞きながら、そんなことを考えていました。

贈与は、見返りを意図しなくとも、多くの場合、相手に負担感を与えることで、人間関係に影響を与えます。
ですから、何らかの形で、贈与は相互行為になりがちです。
見返りのない純粋贈与の典型として、母子関係があげられますが、私は母子関係の存在があるだけで、すでにそれは非対称ではありえないと思っています。
夫婦の場合は、どうでしょうか。
考えれば考えるほど、夫婦とは不思議な関係です。

私は、なぜかいろんな人から「贈与」を受けます。
それに見合うお返しは、あまり出来ていません。
しかし、それはいつかまた、できる時に「恩送り」させてもらえるでしょう。
輪廻転生を信じていますから、現世で収支を合わせられなくとも、どこかでバランスはとれていると、勝手に思い込んでいます。

贈与は受けるよりも与えられる方が幸せなことは言うまでもありません。
そういう点では、最近少し幸せではなくなってきているのかもしれません。
特に、見返りとは全く無縁な贈与のやり取りの日常がなくなったことが、やはりとてもさびしいです。

先日、ある本で、レレ族という狩猟民のセンザンコウ祭儀の話を読みました。
センザンコウは、アリクイに似た哺乳類動物ですが、レレ族はセンザンコウを精霊動物としているため、狩猟の対象にはしません。
しかし、祭儀のときには、センザンコウを供犠の生贅にし、その肉を食べるのだそうです。
そして不思議なことに、祭儀の日に、センザンコウが「キリストのように」進んで集落にやってくるのだそうです。
自らを見返りのない贈与として、供犠になるためにやってくる。
とても考えさせられる話です。
そんなことも、昨日は考えていました。

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■第1回企業サロン「電通社員過労自死問題から何を学ぶか」の報告

昨日、第1回の企業経営サロンを開催しました。
会社を辞めた時から、つまり30年近く前からやりたかったことの一つに、「企業時評」というテーマがあったのですが、ようやくそれに取り組むことにしました。
これは、企業に関わる「事件」を材料にして、そこからこれからの企業経営や自らの働き方を考えていこうというものです。
今回は、電通社員過労自死問題を切り口に、最近話題の「働き方改革」を話し合うことにしました。
当初は、私が長年関わってきた経営道フォーラムの最近のメンバーだけを対象にしようと考えていました。
経営道フォーラムでは、抽象的な議論になりがちで、ケーススタディに基づく具体的な話し合いはなかなかできませんので、いわば経営道フォーラムで学んだことを実践的に消化する場にしたかったのです。
10人ほどを想定していたので、最近のチームメンバーに限って控え目に案内しました。
1つのチームだけでも、フォーラム期間中であれば、6人前後は来ますので、集まり過ぎたらどうしようなどと考えていたのです。
ところが参加申し込みは5人。
それで、開催前日にフェイスブックなどで公募しました。
結局、半分は経営道フォーラム以外のメンバーになりましたが、むしろそれがよかったような気がします。
2回目からは、公開で開催する予定です。

話し合いは、それぞれがまず事件に関する感想などを述べることから始めました。
実は、事件に関わるアクターを整理したペーパーは用意しておいたのですが、そんなものは不要でした。
それぞれからとても多様な視点と問題提起がありました。
私が気づかされることもたくさんありました。
話の内容は一切省略しますが、いまの企業や社会のあり方、教育や報道のあり方、あるいはSNSとコミュニケーションの捉え方にまで話は広がりました。
過重労働問題や働き方・働かせ方の問題、さらには日本の企業の生産性の低さも話題になりました。
3時間経過しても終わりそうもないほどでしたが、改めてこうした話し合いの場の大切さを感じました。
そして、こうした「事件」に対して、批判するのではなく、そこから学ぶことが、企業関係者にも私たち生活者にも、もっと必要なのではないかと思いました。
それがあれば、同じような事件が、繰り返されなくなるかもしれません。
そして、何よりも、働く人も企業経営者も、そして社会も、少し賢くなるかもしれません。

サロンの最後のあたりになって、「働く」とは何なのだろうかという話になりました。
私たちは、そろそろ「働くことの意味」を問い直す時期に来ているように思います。
「働かせ方」や「働き方」も大切ですが、そもそも「働くとは何か」ということです。
子育て問題が待機児童数解消という数量の問題になっているように、働き方改革が労働時間という数量の問題になりがちなのが、私には違和感があります。
問題の立て方を間違うと、解決どころか事態を悪化させることにもなりかねません。
そういう意味でも、「電通社員過労自死問題」は大きなメッセージを与えてくれているように思います。

今回は報告の内容は一切省略しましたが、とても気づきや学びの多いサロンでした。
次回のテーマはまだ決まっていませんが、決まったらまたご案内します。
毎月開催していく予定です。
もしどなたかこんな問題で話し合いたいということがあれば、お知らせください。
ただし、具体的な「事件」や「事例」を切り口にするスタイルは大事にしたいと思っています。

Kigyousalon


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2017/01/28

■節子への挽歌3427:朝晩の歯磨き

節子
この1週間はいささか気分のすぐれない1週間でした。
体調は大丈夫なのですが、どうも気が出てこない。
なにやら忙しく動いていたような気もしますが、実のない1週間でした。
人は忙しい時ほど、暇になる、という感じです。
前にも書きましたが、私が暇だと思う時は、解くべき問題がない時です。
だから時間的な忙しさと私の暇はほぼ同値なのです。

どうして面白いことはないのか。
たぶん私がどんどん世間から離脱しているからなのでしょう。
世の中には解くべき問題はたくさんあるでしょうが、いまの私は狭い世界に浸っていますので、どうもそうした刺戟的な問題に出会うことが少ないのかもしれません。
暇をもてあそびながらも、どこかで暇を目指しているところもある。
要は、私自身の生命力が枯渇しだしているのかもしれません。

ところで、数日前から、かなり規則正しい生活になりだしています。
起きた時と寝る時に歯を磨くようになったのです。
それで生活が規則正しくなったといえるのかといわれそうですが、何しろ1日の始まりと最後の作業が明確になったことの意味は大きいです。

なぜそうなったかですが、それにはそれぞれに理由があるのでです。
先日、テレビの「ガッテン」という番組を見ていたら、朝起きてすぐ歯を磨くと風邪をひかなくなるとあるお医者さんが話していたのです。
知ったことはすぐに実行するのが、私の生き方ですので、それをまずは実行しだしました。
就寝前の歯磨きは、数日前からマウスピースをつけて寝るようになったのです。
歯医者さんから勧められて、私には向いていないなと思いましたが、取り組んだらこれまた調子がいいのです。
就寝中にマウスピースをつけるのは、寝る前に歯を磨かなければいけないのです。
これも歯医者さんから言われたので、素直にそれに従っています。
そんなわけで、1日の始まりと終わりに、私の嫌いな歯磨きをすることになったのです。

実はいずれもまだ3日目です。
問題はこれが持続できるかどうかですが、これを機会に、かなり粗雑になっている生き方を変えてみようかと思いだしているのです。
規則正しい生き方は、私には向いていませんが、朝晩の歯磨きをつづけると何かが変わるかもしれません。

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■自分ファーストの風潮

昨日のブログの最後に、

アメリカファースト、都民ファースト。
貧しい時代になってきました。
と書きました。
そういう風潮に合わせて、「取り戻し」の動きが高まっていることが不安です。

私は、人の本質は、他者をおもんばかることにあると考えています。
それは、人に限らず、生命の本質だと思っていますが、その本質の揺らぎは、人が「死」を認識した時から始まったのかもしれません。
つまり、個体の死が、生命の個体化を意識化させ、そこから私利意識が始まった。
人が、その「死」をむしろ支え合いや思いやりにつなげてきたのは、これもまた生命の本性から出たことだと思っています。

それはともかく、生物的にはひ弱な人類が、生き残れてきたのは、「支え合い」によるものだということは、多くの人が語っていることです。
いま話題の「サピエンス全史」の著者は、アフリカ大陸の一隅で捕食者を恐れてほそぼそと暮らしていた「取るに足りない動物」だった現生人類が、地球を支配するに至ったのは、多数の見知らぬ者どうしが協力し、柔軟に物事に対処する能力を身につけたからだ、と書いています。
もしそうであれば、「支え合いの知恵」こそが、私たちの拠り所です。
そして、私たちはその知恵を時間をかけて制度化し、社会化してきました。
しかし、それを最近の「ファースト志向」は壊そうとしている。
トランプ大統領と小池都知事は、私には同じに見えていますが、それを多くの人が支援していることは、驚きです。

「○○ファースト」ブームです。
「アスリートファースト」という言葉が象徴していると思いますが、だいたいにおいて、「○○ファースト」と言っている人は、その「〇〇」ではなく、それを利用している「よこしま」人が多いように思います。
しかし、その「○○ファースト」に、「○○」の人たちはだまされてしまう。
そして、時代の風潮として、「○○ファースト」、つまり、自分たちのことだけしか考えていないという、生命らしからぬ考え方が広がりだしたということです。
いささか大仰に言えば、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」が始まったのです。
まさに、余裕のない、貧しい時代を象徴しています。

自然は、すべての生命に自らを提供している。
最近の異常気象が引き起こす自然災害を見ると、自然は恐ろしいと考えてしまいましが、それは「人間ファースト」発想によって、私たちの生活を成り立たせてしまっている結果かもしれません。
自然には、悪意があるとは思えません。
支援災害を起こす、その自然のエネルギーが、同時にまた、私たち生命に、あるいは人間に恩恵ももたらしてくれます。
東北の津波被災地に、防波堤を造り上げるのと、メキシコとの国境に壁をつくるのと、私には同じ行為に見えてしまいます。

「自分ファースト」志向は、物事の一面しか見ない、短絡的な姿勢です。
一昔前に、「啓発された自己利益 (Enlighten Self-Interests)」という言葉がはやったことがありますが、利己と利他は時間軸や空間軸を広げていけば、結局は同じものに行きつくはずです。

他者をおもんばかる生き方が、どれほど豊かなものであるか。
私たちは、それを忘れているような気がしてなりません。

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■カフェサロン「豊かな高齢期を生きることの素晴らしさ」のお誘い

昨年10月のカフェサロンで、
「地域に看取りの文化を取り戻す運動」
をテーマに冨田さんに問題提起していただきました。
その反響がいろいろとあったので、そのパート2を開催することにしました。
今回は、1990年前後から施設内での「看取り」を実践してきた
小田原福祉会の潤生園の時田佳代子さんに、
長年の体験を踏まえたお話をしていただこうと思います。
もちろん単なる講演会ではなく、
いつものように話し合いを中心としたカフェサロンです。

いまでは状況は変わっていますが、
小田原福祉会が看取りに取り組みだしたころは、
「死は医療のもの」という時代であり、
医療関係者からの非難の声も多かったそうです。
それが現在は大きく方向転換し、
施設での「看取り」が推進されています。
そうした動きには、理念というよりも、
財源の問題が影響しているようですが、
長年、そうした動きの渦中で活動している時田さんのお話は、
改めて、福祉や医療、さらには「死の問題」「看取りの文化」を考える上で、
大きな示唆をいただけるように思います。

時田さんは、臨床の場での長年の経験から、
人が死ぬことは怖いことではなく、
最期をどう迎えるかわかっていると、
自分自身のその時を真正面から考えることができるようになる、
と話されています。
そうした視点から、今回は
「豊かな高齢期をいきることの素晴らしさ」
を多くの人に伝えたいと話されています。
時田さんと話していて印象に残ったのは、
「自然な死」ということの大切さです。
時田さんは、歳をとることは本当に素晴らしいと実感されているようです。

ぜひ多くの人たちに参加していただき、話し合えればと思っています。
まわりの人たちにもご案内いただければうれしいです。
高齢者に限らず、若い世代の参加も大歓迎です。

●日時:2017年2月26日(日曜日)午後1時半~4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
●テーマ:「豊かな高齢期をいきることの素晴らしさ」
●話題提供者:時田佳代子さん(小田原福祉会常務理事)
●参加費:500円
○参加申込み:comcare@nifty.com

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2017/01/27

■節子への挽歌3426:元気です

節子
挽歌を書いていないので、心配してくれている人がどうもいるようです。
昨日は、2人の人から電話がありました。
元気にしているかという電話です。
フェイスブックを見ている人は、まあそれなりに元気なのを知っているでしょうが、ブログやホームページだけの人は、最近の書き込みがあまりないので(そういえば、ホームページの更新も忘れていました)、何かあったのかと思っているのかもしれません。
幸か不幸か、まあ何とか元気ではあります。
それなりに活動もしています。
今日も2つほど、ミーティングや相談に乗ってきました。
本当は私自身が相談に乗ってほしいくらいの気分ですが、まあ私はそれなりに何とか大丈夫なのです。
私が気にしてもあまり役には立ちませんが、声をかけてみたい「気がかりな人」は少なくありません。
しかし声をかけて、また何がどさっと背負い込むと今の私には持ちこたえられそうもないので、できるだけこっそりと避けているわけです。
困ったものですが、まあ今は許してもらうしかありません。

あまり書かないとご迷惑をおかけするので、今日は、元気だということだけを書いておきます。
まあ、節子は知っているでしょうが。

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■“you, the people”と “we, the people”

また少し時間に追われてしまい、書き込みが滞っていました。
前回、書き残したトランプ大統領のスピーチの “to you, the people”という言葉に関連して少しだけ書きます。
国民を,“you, the people”と捉えるか、“we, the people”と捉えるか、という問題です。
ここにはトランプ大統領の大きな世界観を感じます。

トランプ大統領は、こう話しました。
We are transferring power from Washington, D.C. and giving it back to you, the people.
政権を、ワシントンD.C.から、あなたたち人民に取り戻している、という意味でしょうか。
その文脈の中で、トランプ大統領はどこにいるのか。
私にはそれがとても気になるのです。
トランプさん自身は、the peopleには入らない。
もうひとつ気になるのは、では「だれから」取り戻したのかということです。
アメリカには、the peopleではない、誰かがいるということでしょうか。

アメリカで一時期、「オキュパイ・ウォールストリート(「ウォール街を占拠せよ」)」という動きがありました。
1%と99%の対立です。
これは、アメリカ国内を超えて、世界的に広がっている構図ではないかと思います。
かつては、水平的な国家間の対立構造が、今ではグローバルな空間の中での、1%と99%の垂直的な対立構造へと、世界の構造が変わってきていると私は考えていますが、そういう見方からすると、トランプ演説は政権の主役を1%から99%の人民に取り戻したという意味合いにも感じられます。
私は、トランプさんは今は大金持ちであろうとも、たぶん本性においてはまだ99%から完全には抜け出ていない人だと思えるのですが、そう考えると、トランプ大統領のスピーチはなんとなく納得できるのです。
そして、彼が“we, the people”と言わなかったことにいささかの哀れさを感じてしまうのです。
彼は、“we, the people”といわなかったことにおいて、まさに99%の人であることを示唆しているような気がします。

取り戻すということでは、安倍首相も似た言葉を発していました。
「日本を取り戻そう」です。
これは、トランプ演説以上に、主語も目的語もありません。
ですから意味不明ですが、しかし実際には明確な意味を示唆しています。

いずれにしろ、安倍首相やトランプ大統領の関心は、取り戻しです。
アメリカファースト、都民ファースト。
貧しい時代になってきました。

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■企業経営問題を考えるサロンのお誘い

直前のご案内ですが、もしご関心あればご参加ください。

今年は、企業経営に関する具体的な事例をベースに、そこから企業経営に関する話し合いをする企業経営サロンを開催しようと思っています。
私が長年かかわってきた経営道フォーラムの最近の私の担当チームのメンバーで開催しようと思ったのですが、どうも集まりが悪いので、間口を広げようと思い直しました。
それで開催日前日になったのですが、フェイスブックでご案内することにしました。

とりあえず第1回は、少し前に話題になった「電通女性社員の自殺」問題を切り口に、これも今話題の「働き方改革」を話題にしようと思います。
いずれも話題になっている話なので、そこからそれぞれが感じたことを話し合えればと思っています。
まあ今回は最初ですから、話し合いもさることながら、どんなサロンにしていったらいいのかも考えられればと思っています。

明日の話なのですが、これから毎月開催していく予定です。
よかったらご参加ください。

○日時:2017年1月28日(土曜日)午後1時半~3時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
     http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「電通女性社員の自殺」問題を切り口に「働き方改革」を考える
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2017/01/24

■節子への挽歌3425:お医者さん通いの1週間

節子
また挽歌がたまってしまいました。
挽歌だけではありません。
またいろんなことが滞りだしてしまっています。
どうも今年は起動できずにいます。
困ったものです。

今週はお医者さん通いの1週間です。
昨日は眼科に行きました。
まあ大きな問題はないのですが、なぜか3カ月単位で定期検査に行くことになってしまっています。
地元の小川眼科医ですが、短い診察時間にも関わらず、いつもいろいろと学ばせてもらっています。
今日は歯医者でした。
ついにマウスピースをする羽目になったのですが、それが完成しました。
ところが今日、前歯が一部かけているのが発見されました。
そういえば、先日、ちょっと歯を使って硬いものをちぎったのですが、その時にかけたのだと思います。
困ったものです。
節子からも娘からも固く禁じられている行為ですが、ついうっかり、でした。
明後日は成形外科。同じ日に遠藤クリニック。
どうせなら今週、すべての医者に行ってみようと思って、重ねてしまったのです。

血圧は、正直あまり調子は良くないのですが、一応、薬をやめたと言ってしまった手前、いまさら方針を変えられずにいます。
これまた困ったものです。

机の上は、ますます雑然としてきて、書類と書籍が山になっています。
年賀状も相変わらず白紙のまま、机の上に積まれています。
1月中は無理そうです。
毎年2月初めに年賀状をくれる人がいるのですが、さてどうするか。

と言いながら、それでも今日は少し頑張りました。
いま話題の「サピエンス全史」を読みました。
厚い割には軽い本ですが、面白かったです。
塩野七生さんの「ギリシア人の物語」がなかなか出版されないので、気になっています。

しかし、無理をすることもないでしょう。
今月はわがままを通しましょう。
今年は、2月から新しい年が始まることにしようと思います。

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■第7回リンカーンクラブサロンのご案内

第7回リンカーンクラブは、前回話題になった原発問題にも絡めて、住民投票と民主主義のテーマについて話し合いたいと思います。
民主主義の問題は、ともすると抽象的な話になりがちですが、今回は20年ほど前に起こった、新潟県巻町での住民投票の経緯を最近まとめた折原さんに報告と問題提起をしてもらうことにしました。

記憶に残っている方も多いと思いますが、巻町では原発建設是非を問う、自治体による全国初の住民投票が行われたところです。
原発に「ノー」を突きつけた町民の選択と道のりは当時、「民主主義の学校」として全国的にも高く評価されたところです。

折原さんはその巻町の関係者などへの聞き込みなどを踏まえながら、当時の状況を「原発を葬った市民のスクラム」という報告にまとめています。
参加される方は、事前にこの報告を読んでいただき、当日はそれを踏まえての話し合いができればと思います。
参加申込みをいただければ、その報告論考を送らせてもらいますので、
参加ご希望の方は必ず事前にご連絡ください。

よろしくお願いいたします。

○日時:2017年2月19日(日曜日)午後1時半~3時半
○会場:湯島リンカーンクラブ事務局(文京区湯島3-20-9-603)
http://cws.c.ooco.jp/lcmap.pdf
○問題提起者:折原利男さん
○テーマ:原発を葬った市民のスクラム 巻町住民投票をめぐって
○会費:500円
●主催:リンカーンクラブ
http://lincolnclub.net/
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

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■リンカーンクラブ 第1回講演会のご案内

リンカーンクラブでは今年から定期的に「民主主義」をテーマにした講演会を開催していきます。
第1回目は、永田町議員会館で日々多くの議員から最新情報を入手し、政局の行方を分析している政治ジャーナリスト安積明子さんをお招きしました。
直前の案内になってしまいましたが、みなさまのご参加をお待ちしています。
案内チラシを添付します。

日時:2017年1月30日(月) 午後6時半~8時半(6時開場)
場所:文京シビックセンター 区民会議室4階ホール
     http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html
     丸の内線・南北線[後楽園駅]、三田線・大江戸線[春日駅] 徒歩1分
     JR総武線[水道橋駅](東口)徒歩9分
講師:政治ジャーナリスト 安積明子さん
内容:
1)野党共闘は成り立つか
2)現在の野党共闘の問題点
3)今解散すると衆議院はどういう構成になるのか
参加費:会員1000円、非会員1500円(税込み)当日会場でお支払いください
申込先:info@lincolnclub.net

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2017/01/23

■リンカーンクラブサロン「わたしたちの声を政治に届けるにはどうしたらいいかパート2」の報告

昨日、「わたしたちの声を政治に届けるにはどうしたらいいかパート2」のリンカーンクラブサロンを開催しました。
参加者は10人でしたが、議論は盛り上がりすぎて、3時間たっても終わりませんでした。
今回は、普通の人の声を集めて社会に発信していく仕組みをつくりたいというニコさんの呼びかけから話し合いが始まりましたが、話題は広がり、現在の日本の政治の裏話のような話まで出てきました。
私には驚愕するような話もありましたが、納得できる話もありました。

最初に問題になったのは、「電力自由化の後、原発の電力を新電力会社にも請け負わせようという経産省の提案」の話です。
ニコさんは、原発事故によって生じたコストまで新電力会社に負担させるのはおかしいと考えていますが、これに関しては賛否両論がありました。
話しているうちに、結局は、原発をどうするかという話ではないかということになり、ドイツや台湾・ベトナムの話も出ました。
まだまだ私には知らないことがたくさんあります。

そこからなぜか、日本政治の裏話のような話題になってしまい、私には少しついていけなくなったのですが、予定調和などとは無縁のサロンですから、それがまた刺激的でした。
いろんな話がありましたが、何しろあまりに刺激的な話が多かったもので、うまく報告できません。

私の関心事で言えば、「主権者教育」ってなんだという問題提起に共感を持ちました。
主権者を教育するのは、一体誰なのか?
どう考えても私には理解できない話ですが、そもそも「主権者教育」などという言葉が使われている風潮に違和感を持っています。
かつての消費者教育の時にも感じた違和感です。
この言葉をいつか話題にしてサロンをしたいものです。

ちなみに、問題提起者の小室ニコさんは、みんなの声を書名で集めて、ネットで世界に発信していきたいという思いをお持ちですが、ご自分がネットが得手でないので、ネットの得意な人に応援してもらえないかと希望しています。
もし一緒にやろうという人がいたら、あるいはそういうことに関心を持ってくれそうな人がいたら、ぜひ小室さんに連絡してください。
私に連絡してもらえれば、つなげます。

なお次回のリンカーンクラブは、2月19日(日曜日)、新潟巻町での原発建設を巡る住民投票をテーマに、折原さんに報告してもらい、住民投票(国民投票)の意味を考えられればと思っています。
詳しい連絡は別途させてもらいます。

20170122


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■2つの民主主義

先日のリンカーンクラブのサロンでも話したのですが、リンカーン大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」という理念には、2つの考え方が包含されていると思います。
「人民の、人民による政治」と「人民のための政治」です。
それが一致するのが一番望ましいでしょうが、実際にはそれはとても難しい。
なぜなら「人民」という概念が、あまりに包括的であいまいだからです。
そこで、私は2つを別に考えたほうがわかりやすいと考えています。

「人民の、人民による政治」は、政治を執行する主体が「人民」ということです。
いわゆる直接的民主主義で、これこそが、本来的な民主主義の理念ではないかと思います。
衆愚政治とかポピュリズムという言葉が、最近は否定的に使われますが、人民が主役であるならば、まさにそれこそが「人民の、人民による政治」です。
そもそも衆愚という言葉自体が、人民を対象化した捉え方で、人民とは違った「賢い存在」があるという前提に基づいています。
先日のリンカーンクラブの公開フォーラムで、「愚民」という言葉が「学者」や「有識者」から発せられましたが、そうした発想を持つ人には、「人民の、人民による政治」は恐ろしい発想でしょう。
もし民主主義に価値を少しでも置くのであれば、人民を信頼しなければいけません。
不都合な人民を「愚民」と言って排除する発想は、民主主義とは真逆な発想です。

「人民のための政治」は、政治の目的が「人民の幸せ」だとする政治です。
政治の主体は、そこでは問題になりません。
王が民衆の幸せを目指す善政を行うのであれば、それは「人民のための政治」です。
民主主義の理念を、個人の尊厳の尊重と捉えるのであれば、これもまた民主主義の一つと言っていいと思います。

「人民の、人民による政治」が、必ず「人民のための政治」になるとは限りません。
多様な価値観を持ち、多様な立場にある「人民」は、まさにその多様性のゆえに、政治の主体(主役)と客体(対象)はそう簡単にはつながらないからです。

おそらく多くの人は、「人民のための政治」を求めているように思います。
自らが政治の主体になるよりも、自らを幸せにしてくれる人に政治を託したいと思うのは、合理的な判断です。
それは決して「愚民の判断」ではありません。
そしてそれもまた立派な民主主義だと思います。
ただ代表になった政治家が、「人民のための政治」から逸脱しないようにする仕組みが必要であることは言うまでもありません。

しかし、ここにも大きな落とし穴があります。
「人民のため」とは何か、「人民の幸せ」とは何かという問題です。
この点に関しての議論はあまりありませんが、最近話題になっているユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」には、その問題意識があります。
著者は、その本の最後にこう書いています。

私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。

私はその問いかけに全面的に共感します。

私自身は、「人民の、人民による政治」のほうに民主主義の本質を感じています。
それは「幸せ」ということをどう捉えるかということにもつながっています。

トランプ大統領の就任演説にこんな言葉がありました。

We are transferring power from Washington, D.C. and giving it back to you, the people.

私は、この最後の“to you, the people”という言葉が、とても気になりました。
これについては明日また書こうと思います。

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2017/01/21

■節子への挽歌3424:血圧がまた上がっています

節子
今日こそ年賀状や年賀メールを書こうと思っていたのですが、やはり書けませんでした。
必ずしも時間がないわけではないのですが、何か落ち着かずに、書く気が起きません。
困ったものです。
人は怠惰になるとどんどん怠惰になっていくことは、これまでも何回も経験していますが、今度はかなり重症のようです。

ところで血圧を最近は毎日朝夕と2回測定しています。
最初の2日間ほどは安定していましたが、昨日あたりからかなり高い数値になってきました。
気のせいか調子もよくありません。
それにいろんな人からアドバイスをもらったのですが、実行しているのはピーナツを食べることくらいですので、数値が改善されるわけもありません。
まあこういうところが私の一番ダメなところなのですが。

ちなみに、この数日、血圧が上がるようなことがあります。
私は稀勢の里がどうも好きに慣れなかったのですが、昨年秋ころから何とか優勝して横綱になってもらいたいと思い、さほど好きでもない相撲を、稀勢の里の取り組みだけはできるだけ見ているようにしています。
今日も、外出していましたが、その取り組みに間に合うように帰宅しました。
稀勢の里の相撲は安定性がないので、見ているとまさにドキドキして血圧も上がります。
いや最近は見前からドキドキします。
今日は勝ちました。
そして私が好きな白鴎ガマ得たため、なんと稀勢の里が優勝し、横綱になりそうです。
これでもしかしたら、高血圧の原因が一つなくなるかもしれません。

アメリカではトランプが大統領になりました。
世界が変わるかもしれません。
これは、私にとっては血圧が上がる事象ではありません。
明日の血圧測定値は下がっているといいのですが。

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2017/01/20

■節子への挽歌3423:はみ出し者のたまり場

節子
昨日はまたとても刺激的な人に会いました。
社会からかなりはみ出している人です。
18歳で、岡本太郎に認められて、岡本太郎賞を受賞したデザイナーの鈴木さんです。
その経緯も、実に面白い話ですが、岡本太郎が評価した人ですから、その方もかなり型破りの人です。
見た感じからして、そうでした。
道で会ったら、もしkしたらちょっとよけて通るかもしれません。
昨日も、どでかいバイクでやってきました。
これまでの仕事の内容を見せてもらったら、それはもうとんでもなく面白そうなものばかりでした。
私が大好きだった、久保キリコさんの自宅の設計にも関わったようです。

なぜそんな人がやって来たかといえば、
これまたいささか現世離れした友人から、ある活動を起こしたいと相談を受けました。
それはあるところで、新しい発想のカフェを開店するという話なのですが、論理的に考えると、夢のような話なのです。
その件で話をする予定にしていたのですが、それを知った鈴木さんが応援に駆け付けたというわけです。
かなり風変りの人ですからと彼女から事前に話は聞いていましたが、思っていた通りの人でした。
ですからすぐに心が通じました。
話しぶりからも、いかにドラマティックな人生を送って来たかを感じます。
バブル崩壊以前は、さぞかし華やかな毎日だったでしょう。
しかし、いまは、たぶんあまり生きやすい社会ではないでしょう。
才能は溢れすぎているはずですが、現実とのずれがかなりあるでしょう。
私の感覚では、いまは偽物の時代ですから。
そんなわけで、私は実に魅力を感じました。
かなりの危うさも伴いますが。
まあ少しご一緒することになるかもしれません。

ところで、昨日は、湯島に、3組7人の人が来ました。
みんなかなり社会からはみ出した人ばかりです。

2番目の人は節子もよく知っている大川さん。
彼もまあ現在の社会では絶滅種の仲間でしょう。
そして3組目は4人でしたが、これまた強烈な個性の持ち主ばかりでした。

個性的な人たちと付き合うのは、刺激的ではありますが、こう多いといささかつかれます。
それにしても、どうして湯島にはこうおかしな人ばかり来るのでしょうか。
困ったものです。

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2017/01/18

■節子への挽歌3422:2人の友人知人

節子
昨日はテレビで、久しぶりの2人の友人知人の顔と名前を見ました。
長年生きていると人の付き合いも広がり、いろいろなことがあります。

ひとつは、いささか不幸な事件ですが、私の友人は加害者として報道されていました。
彼のことをよく知っている私としては、とても不幸な事件としか言いようがありません。
実は、この2年ほど、会っていなかったので、そろそろ声をかけようと思っていた矢先です。
職場を変えたこともあって、もしかしたらストレスがたまっているのではないだろうかとなんとなく感じていたのです。
そして今回の報道。
わずかな報道でしたが、彼のことだとすぐわかりました。
世間的には「加害者」かもしれませんが、いかなる犯罪も、そこに関わった人たちはみんな被害者だと思っている私には、むしろ友人もまた被害者だという思いです。
大切なのは、いま彼がたぶん深く落ち込んでいるだろうなということです。
娘に、連絡を取ろうかなと相談したら、しばらくはやめたほうがいいと言われました。
たしかにそうでしょう。
善意は、所詮は自分自らの満足のためであることが少なくありません。
でもはやく彼には会いたい気分ではあります。
最初に会った時のさわやかな笑顔と誠実さの好印象が、いまも私には強く残っています。

もうひとつは、事件とは関係なく、ある件に関して話をしている姿を見ただけです。
節子の胃がんが判明した時、最初に相談した医師の一人が、その人です。
いまから思えば、極めて的確なアドバイスをしてくれました。
しかし、当時は、そのアドバイスが私の心を閉ざさせてしまい、以来、交流は全くなくなりました。
ですから、節子のことを報告する機会も失っています。
もっとも、さほど親しかったわけではありませんし、彼にとっては、それこそ記憶にも残っていない些細な話でしょう。

私も時々、いろんな相談を受けます。
しかし、相談に対する対応は、それこそ十分に気をつけなければいけません。
理論的には的確なはずのアドバイスが、実際にはまったく的確でないことは少なくありません。
そのことを気づかせてくれたのは、その知人でした。
だから私の頭から、その人の名前は消えたことがありません。

しかし、たまたまテレビを見たら、2人の友人知人に出合うとは。
なかなか世間から自由になるのは難しいです。

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2017/01/17

■節子への挽歌3421:さだまさしさんの歌は哀しすぎます

節子
人は時に無性に感傷的になります。
今日は自宅でパソコンである記録づくりをしていたのですが、その途中で突然に、どうしてこんなことをやっているのだろうという虚しさが湧いてきました。
記録をつくっていた集まりで語られていることは、あまりに私の世界とは違うのです。
こういう人たちとは違う世界に、私は生きているのではないか、という傲慢な自負が時々顔を出すのです。
そうなるともう手がつかなくなってしまうのが、私の未熟さです。

その後がまたよくありませんでした。
さだまさしの毎日聞いている歌を聴いたのですが、それにつづく、さださんの「風に立つライオン」を聴いていたら、無性に涙が出そうになってきたのです。
直接にはつながりませんが、この曲の歌詞は、なぜか私の20代を思い出せてくれたのです。

私たちが付き合いだしたころ、私たちの前にはとても大きな世界が広がっていました。
節子も私も、それをなんとなく感じていて、いささか世間離れした生き方をわずかばかり楽しんでいた気がします。
毎日よく笑い、よく泣きました。
お互いに両親に反対され、それでも友人たちからは祝福を受けながら、神田川的生活から私たちの生活は始まりました。
華やかな結婚式もなく、6畳一間からの生活は、何もないが故に、最高に幸せでした。
「常識」から解き放された、嘘のような生活。
私は楽しみ、節子は戸惑っていたでしょう。
しかし、生活は次第に「ふつう」になりだし、遅ればせながらの式もあげさせられ、家具もそろいだし、その上、東京に転勤したために、生活もパターン化しだしてしまいました。
その時点で、たぶん私たちは、ふつうの生活になってしまいました。

25年間勤めた会社を辞めた時、もう一度、チャンスがやってきた。
しかし、いまから思えば、その生き方もまた、まだ中途半端でした。
そして、いよいよ新しい生き方を節子と一緒に始めようとした時に、節子の胃がんが発見されたのです。
そして私たちの、いや私の人生計画は終わったわけです。
なぜ私ではなく、節子だったのか。
何回それを考えたことでしょう。
もし、節子と立場が入れ替わっていたら、たぶん私の思い通りの人生を過ごせたはずです。
そう思うと、無性にさびしい。
私が考えていた一生は、やはり伴侶との最終章が目的地だったのです。
時々、そんな思いが頭をよぎると、ひどく感傷的になってしまうのです。

節子はグレープの「精霊流し」が好きでした。
さだまさしの曲の歌詞はとても哀しい。
さだまさしの「奇跡」が、いま流れています。
いまの私には、とても残酷な歌詞です。


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2017/01/16

■節子への挽歌3420:主治医がたくさん

節子
私が血圧を下げる薬を飲むかどうかで騒動が起きています。
まあ騒動というのは大げさですが、事の顚末はこうです。

私はかなり前から高血圧だと言われています。
といっても、めったに上は200を超えることはないのですが、お医者さんからはもう長いことを薬をもらっています。
あんまりきちんと飲んでいなかったのですが、昨年の秋、ちょっと体調がおかしくなったので、それ以来、きちんと飲むようにしていました。
きちんと飲むと薬はなくなりますので、先週、いつものクリニックに行きました。
ところがいつもはさほど混んでいないクリニックが、大混雑でスリッパがないほどでした。
少し待ってみましたが、これは長くかかりそうだと思い、受付の人に薬だけもらえませんかと頼みました。
いつもはそれで大丈夫だったのですが、今回はダメでした。
新しい看護師さんに、診察しないと薬は処方できないと言われたのです。
当然ではありますが、診察は単に血圧測定ですし、薬は決まっているのです。
私は、ともかく「待つ」という「無駄」な行為が好きではないので、診察券を返してもらって帰宅しました。
帰りの途中、これはきっと啓示だと気づき、これを機に薬の服用を止めることにしました。
薬ではない方法で、血圧問題を克服しようと考えたわけです。
そんなことを、フェイスブックに書いたたら、たくさんの人からコメントが届きだしました。
よせばいいのに、そこに最近歯医者さんで血圧を測ると200を超すと書いてしまったのです。

それで友人知人が心配して、いろんなアドバイスをしてくれたのです。
その内、私の知らない人までていねいにコメントやアドバイスをくれ、さらにフェイスブックではなく個人的なメールまで届きだしました。
私より年上の一松さんは血圧に関する本まで送ってきてくださいました。
さらに、実際にアドバイスするために保健師の方まで連れてきてくれる人まで出てしまいました。
こうなるともはや問題は私だけの問題ではなくなります。
それで昨日から、家に眠っていた血圧計をだしてきて測定することにしました。
昨日の夕方は、87/131。
今朝は、95/157。
薬をやめてから3日目ですが、まあこれくらいなら大丈夫でしょう。
後はいろんな人からのアドバイスに従って、薬に頼らずに、もっと安定させられると思います。
まあ、それだけの話ですが、ある人が「佐藤さんは主治医がたくさんいてうらやましい」と書いてきました。
そうなのです。
節子がいなくなってから、いろんな人が私のことを心配して、何か問題がでるといろいろとアドバイスしてくれるのです。

まあ、それが節子がいなくなっても、私が生きながらえている理由かもしれません。
世の中は、みんな善い人ばかりなので、なかなかそちらには行けません。

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2017/01/15

■オバマとトランプのスピーチ

アメリカのオバマ大統領とトランプ次期大統領のスピーチや記者会見が話題になっています。
ほとんどの人が、オバマの話に感銘を受け、トランプには反発しているように思います。
しかし、私は、オバマには失望し、トランプには期待しました。

オバマは、相変わらず、Yes,we can.といい、さらに今回は、Yes,we did.といいました。
なにをやったというのか。
期待を裏切っておきながら、それへの説明がない。
とても失望しました。

オバマの大統領就任演説には感動しました。
歴史の流れが変わると思いました。
しかし、1%支配の流れはむしろ加速され、アメリカはますます軍事力を高め、テロ活動を加速させた気がします。
オバマケアにも、大きな疑問がありますし、何よりもトランプによって簡単に覆されそうになっていることが、その実態を示唆しています。
今にして思うと、Yes,we can.というように、we で語る時の weとは誰かということさえ考えたくなります。
いまさらYes,we did.などといわれると、小賢しささえ感じます。
オバマには自らの生命をかけた責任感が全くなかったのではないかとさえ思います。
Yes,we did.の weとは誰だったのか。

オバマと違って、トランプは単数形のI(私)を主語にして語っています。
実体があいまいで責任転嫁しやすい複数形ではなく、責任が明確になる単数形ですから、私は好感が持てます。
良くも悪くも、そこに自分のすべてがかかっているわけで、逃げ場はありません。
学者や「有識者」は、weで語りがちですが、大統領のような実務者は単数形のIで語るべきだと思います。
そして、トランプは、自らの考えや政策を極めて明確に語っています。
そこにごまかしはありません。
メキシコとの間に壁をつくることをとんでもないように言う人は多いですが、壁をつくっている国は多いですし、見えない壁よりも見える壁のほうが私には安心です。
自由貿易を批判していますが、私は過剰な自由貿易によって、世界的な格差が広がっている現状はおかしいと思っていますので、賛成です。
アメリカファーストというのも批判の対象になっていますが、小池さんの都民ファーストやアスリートファーストと同じです。
もちろん私はいずれにも賛成できませんが、都民ファーストに賛成している人がなぜアメリカファーストに反対なのかがわかりません。

トランプが記者会見でCNNの記者に質問させませんでした。
それも多くの人が非難しますが、その一方で、マスコミの偏向が問題だという人が少なくありません。
にもかかわらず、こういう場面ではマスコミの立場に立ってしまうのが理解できません。
もしマスコミの報道姿勢が社会をおかしくしていると思うのであれば、トランプの行動も理解できるはずです。
先日も、民主主義をテーマにしたフォーラムをやりましたが、そこで多くの人がマスコミが問題だと言いました。
その人たちはこの場面をどう見たでしょうか。
たぶんCNNの記者の味方をするでしょう。
私には言行不一致に思えます。

もちろん私はトランプの姿勢がよいとは思ってはいません。
もしトランプに力と自信があれば、正々堂々と正面から質問を受けて立ったはずです。
でもそれでは勝ち目がないことを彼は知っているのでしょう。
何しろ長年現場で生きてきた人ですから、報道がいかに巧妙かを、身に染みて知っているはずです。
戦いの始め方に関しては、私はいつも映画「アラモ」のトラヴィス大佐のやり方を思い出しますが、トランプがマスコミに宣戦布告したやり方は賛成できます。
CNNの虚構性は、現に今回の大統領選で明らかになりました。
CNNをはじめとしたマスコミの在り方こそを、変えるべきチャンスです。

まだまだいろいろと書きたいことはありますが、要は、トランプは時代の流れに異議申し立てしてくれたのです。
それを逆手にとって、金融界は利益を上げていますし、1%の人たちは、トランプを手玉にとって、自らの利益につなげるでしょう。
その応援をしているマスコミや有識者たちには、私は大きな怒りを感じます。

50年ほど前に「アメリカの反知性主義」を書いたリチャード・ホーフスタッターが生きていたら、トランプとクリントンの大統領選をどう読み解いてくれたでしょうか。

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2017/01/14

■節子への挽歌3419:ラカンを勉強しようと思います

節子
昨日は柴崎さんと食事をしました。
柴崎さんは、節子もよく知っている、かつてのサロンの常連でした。
最近、体調が悪く本も読めないというので、気分転換に食事を誘ったのです。
私のまわりには、社会にはうまく適合できない私のような人は少なくないのですが、柴崎さんはその中でも飛びぬけて、社会不適応者でしょう。
吉本隆明の研究者ですが、マルクスもイリイチもポランニーもラカンも読んでいる勉強家です。
しかもただ読むだけではなく、自分の視点で読みながら、自分でも論文を書いていますが、それがまた難しく、読んでもなかなかわからないのです。
まあ節子にはまったく理解できない人ですが、なぜか節子は気にしていた一人です。

柴崎さんは、人と議論するのも苦手です。
たぶんあまり家から出ずにいるでしょうから、時にほぐしてやらないといけません。
それに彼の頭に詰まっているさまざまな知見を、整理して放出させないと精神的にもよくないでしょう。
なによりも経済的にも大変でしょうし。
人のことよりも私自身のことを考えろと言われそうですが、彼は私よりも2まわり以上若いはずですから、何とか応援しないといけません。
節子もずっと心配していましたし。

しかし、こうやって食事を一緒にすると、またいろいろと宿題を背負うことになります。
もうこれ以上背負いたくないのですが、今週はこれで2つもまた背負ってしまいました。
これはもう私の定めとしか言いようがありません。
困ったものです。

それに、柴崎さんを応援する以上はラカンも読まなくてはいけません。
それ以外はたぶん私も渡り合えるでしょうが、ラカンはまったく知りません。
最近は難しい本はなかなか頭に入っていきません。
でもまあ新しいことを学ぶことはワクワクすることですから、少し頑張ろうと思います。

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2017/01/12

■節子への挽歌3418:幸せな死への流れ

節子
長年、施設で看取りの活動をされている小田原の時田さんが湯島に来てくれました。
時田さんとはもう15年ほど前にあるシンポジウムでお会いしましたが、以来、いろんな面で学ばせてもらっています。
しかし、看取りという関係でお話をするのは、昨日が初めてでした。

実はその直前に会った友人とも話していたのですが、
人生の最後くらいは自分で決めたいと思っています。
その友人も同じ思いでした。
節子もよく知っている武田さんです。

問題はどうするかです。
「山に入る」という方法もありますが、現代社会ではそれはやはりいろんな人に迷惑をかけることになるでしょう。
ですから、方法は一つです。
要は、食を断つということです。

時田さんは、多くの看取りの体験の中で、人は自然に死を迎えられる存在であることを確信されています。
自然に生きていれば、死に向かいだす時には、自然と食べられなくなるのだそうです。
その時に無理に栄養を補給すると、幸せな死への流れが壊されるのだそうです。
自然の流れに任せると、それこそエンドルフィンの作用で、とても平安に死を迎えられるそうです。

私の友人から聞いた話ですが、
彼の父親は、死を悟った時に、食を断ち、1週間後に大往生したそうです。
節子のことを考えると、節子の平安な死を妨げたのは、やはり私のエゴのせいです。
回復を願っていた私は、栄養補給をし、無理やり食べるように働きかけました。
節子は頑張って食べてくれましたが、それは節子の自然な死への旅立ちを妨げていたのです。
いまから思えば、私自らの欲の深さが、節子を苦しめたのかもしれません。
節子の最後は幸せな表情だったのも、私のエゴが見誤らせたのかもしれません。

私自身は、やはり自宅で、食を断つことによって、最後を決めたいと思っています。
しかしそうするにしてもやはり誰かの助けが必要です。
いまのところはそれを頼めるのは娘だけです。
彼女たちが引き受けてくれるといいのですが。

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2017/01/10

■なぜ日本人は「出生地」にこだわるのか

昨年、朝日新聞のコラムで、酒井啓子さんが刺激的な問いを出しています。
「日本の政治がひどくなって自由に議論できない社会になったら、海外に脱出するか」。
世界的にみれば、よくある問いの一つでしょうが、その問いへの同僚などの反応に酒井さんは違和感を持ったようです。
そのことに、私も大きな関心を持ちます。
日本から脱出することは、多くの日本人には選択肢にさえならないかもしれません。
日本人は、もしかしたら根っからの「国民」なのかもしれません。

そういえば、難民問題も、日本では「受け入れ問題」でしかありません。
そして受入に対して世代を問わずこぞって否定的なのは、福島原発の被災地から転居した子どもたちの扱いを見ればよくわかります。
出生地から出ることにも入ることにも、みんな抵抗があるのです。
日本はどうやら極めて、閉じられた社会のようです。
よく言われるように、「内」と「外」とは、別世界なのです。

福島原発事故につなげていえば、酒井さんの疑問はこういうようにも置き換えられます。
「住んでいるところの環境がひどくなったら、他のところに脱出するか」。
この問いに対しても、必ずしも答えは自明ではないでしょう。
実際に被災者のみなさんは、やはり住んでいたところに戻りたいという意向が強いように感じます。
もしかしたら、報道している人たちに、そうした発想が強くあるために、そういう姿勢で報道されているのかもしれませんが、なぜかみんな戻りたがる。
被災地に戻らずに加害者に転居を保障させるような動きは強まりませんし、政府も何とか除染して元に戻させようとしています。

これは組織への帰属性にもつながっているかもしれません。
かなり粗っぽい議論になりますが、こうした私たちの心性が、日本の社会を形成してきているように思います。
私たちにとって、環境は所与のものか、選択できるものか。
私には、その答えは明確ですが、みなさんはいかがでしょうか。
そのいずれかによって、生き方は大きく変わっているはずです。

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■節子への挽歌3417:フェイスブックでまたうれしい連絡がありました

節子
とてもうれしいメールが届きました。
福田粛さんからです。
フェイスブックでつながったのです。

もう30年以上前になりますが、ハワイのキラウエア火山に行くツアーでご一緒した福田さんです。
そのツアーは、実に魅力的なメンバーでした。
いまは大活躍の茂木健一郎さんも、その一人でした。
私たちは夫婦で参加させてもらいました。
帰国後、湯島でみんなで会いました。
その時も、福田さんはわざわざ関西から出てきてくれました。
その後、交流がありましたが、いつの間にか交流が途絶えてしまっていました。
節子が病気になってから、私は一時期、世間と断絶しているような時期がありましたから。

福田さんは、いま大学教授です。
以前送っていただいた論文は、私のとても関心のあるテーマで、いろいろと示唆をいただいたことを覚えています。
いまは何に取り組まれているのでしょうか。

福田さんは、昨年末、またキラウエア火山に行ってきたそうです。
メールにこう書かれていました。

年末にキラウエアに行ってきました。
佐藤ご夫妻や他いろいろ思い出していました。

あの旅はとても豊かな旅でした。
それに、私にとっては、節子との最初の海外旅行でした。
思い出すことがとてもたくさんあります。
その旅の途中で、大学時代の友人に会ったりもしました。
私が新しい生き方に移る契機のひとつにもなった旅でした。
出会った人たちも、みんな魅力的でした。

その時のメンバーはいまはどうしているでしょうか。
よく湯島のサロンに来ていた松崎さんは節子よりも先に亡くなってしまいました。
一番年長だった杉本さんは、いまも時々、湯島に来てくださいます。
節子との交流があった、もう一人の女性の前田さんは粘菌学者ですが、その後、アメリカに移って連絡が途絶えてしまいました。
節子の闘病の時期、そうした人の繋がりをおろそかにしてしまったために、交流が途絶えてしまった人も少なくありません。
いまのようにフェイスブックでつながっていれば、関係は持続できるのでしょうが、10年前はまだ繋がりは意図的に維持しないと失われやすかったのです。

一度また、みんなに声をかけさせてもらおうかとも考えましたが、そういうことも節子がいないとどうもやる気が起きません。
最近、一人では何もできない自分に気づきだしています。
困ったものです。

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■節子への挽歌3416:年始のあいさつがなかなかできません

節子
ようやく陽ざしが戻ってきました。
陽が当たりだすと一挙に風景が変わります。
今日は午後から時間ができそうなので、連休中にやる予定だった作業を精いっぱいしようと思います。
また勤勉な生活が戻りそうです。

今年は年賀状も年賀メールもほとんど出していません。
年賀状は一応購入してはいるのですが、まだ全くの手つかずです。
そうしたらある人から、自分が出した年賀状は届いているかという電話がありました。
もしかしたら心配をかけているのかもしれません。
そろそろなんらかの反応をしなければいけません。
生きるということは、人との関係に心遣いをするということでしょうが、なぜか今年は「その気」になれません。
困ったものです。

しかし、それはどうも私だけではないようです。
気になっている人たちからの、年に1回のメールや年賀状が何人か届きます。
いずれも私の反応を期待しているようなので、こうしたものにはすぐ反応するようにしています。
しかし、毎年、そうなのですが、再びの連絡はいずれからもありません。

父親を亡くしてぽっかりと心の中に穴が開いた。
湯島に言っていいですかというメールには、いつでもどうぞと返信しました。
でも何の反応もない。
昨年は行けなかったが、今年こそ伺いますと言う人にも、サロンの案内を出しましたが、返信がない。
どうしていますかと気にしてくれている言葉が、毎年、年賀状に書き添えてある若者には、毎年、年賀状で近況を伝え、メールアドレスを書いていても、また1年間何の連絡もなく、同じ言葉が添えられた年賀状が届く。

問いかけた以上は、その問いへの答えに対して反応してほしいのですが、なかなかそうはなりません。
これは私の生き方とは全く違うのですが、しかし、反応しないのには理由があるのでしょう。
でも問いかけが宙ぶらりんになっていると、どうも気になって仕方がないのが、私の性格なのです。
その理由を詮索すると、また際限がないのですが。

まあそんなこともあって、今年は年賀状や年賀メールを放置したままなのです。
「その気」になったら、書きだしますので、お許しください。
今日はともかく「作業」です。
寒くなるとまたできなくなりますので。
自然とと共に生きると言うのも、なかなかいいものです。


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2017/01/09

■節子への挽歌3415:人生の選択肢はたくさんある

節子
この2日間、とても寒い日が続いています。
パソコンのある私の仕事部屋はエアコンがないので、寒くて仕事もできません。
先日のフォーラムの記録をまとめないといけないのですが、そんなわけでまたサボってしまいました。
困ったものです。
途中武田さんから電話がかかってきて、寒くて仕事ができないと言ったら、お金を払えなくて電気を切られたのかといわれました。
失礼な!そんなはずはないだろうといったら、いやいや十分に可能性があるというのです。
私がよほど貧しいと思っているようです。
本当に困ったものです。
もっとも今日のお昼は、即席ラーメンでしたから、わが家の家計もかなり大変なのかもしれません。
しかし、私はお金で困ったことはこれまで一度もないのです。
それにお金が必要なほど貧しい生き方をしていないのです。
私は実に幸運に恵まれているのです。
幸運に恵まれた豊かな生き方をしていると、お金などあんまり必要ないのです。

幸運といえば、アウシュビッツを生き延びたフランクルはこの上なく、幸運の人です。
以前書いたことがあるかもしれませんが、フランクルは信じられないほどの幸運の重なりであの過酷な状況を生き延びたのです。
しかし考え方を変えてみれば、生き延びることが果たして幸運なのかどうかはわかりません。
大切なのは、幸運だと思えることであり、その幸運に感謝できることでしょう。
豊かさも貧しさも同じです。
フランクルほどではありませんが、私もかなり幸運な定めなのかもしれません。
それにフランクルとは比べようもありませんが、それなりに苦労や悩みにも恵まれているのです。

フランクルは収容所で、没収された著作の原稿をメモし続けました。
死にそうなほどの病気の時にも、です。
それに比べたらこんな寒さは何ということもないでしょう。
と思って、何回か寒い部屋でパソコンに向かいましたが、やはり続きません。
あたたかいリビングで仕事ができるように、ノートパソコンを買おうかと思いだしています。
やはりちょっとはお金も必要なようです。

3万円のマウスパソコンを買うべきか部屋があたたまるほどの暖房器具を買うべきか。
それとも寒さに耐えるべきか。
いやいや、そもそも寒い部屋での仕事をしない選択肢もあります。
人生にはいつも選択肢はたくさんあるのです。

明日はあたたかくなるといいのですが。
あたたかくならないと仕事が進みません。

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■虚構と真実

今朝の朝日新聞で知ったことです。
2004年からネットで「虚構新聞」を発行している人がいます。
その人によれば、最近は政治的なネタはやりにくくなったそうです。
「かつてなら冗談とわかって笑ってくれた。でも今は、いかにもありそうなウソの見分けがつかず、真に受ける人が多いんです」と言う、その人の言葉が紹介されていました。
たしかに、嘘のような本当の話や、本当のような嘘の話が、まかり通る時代になってしまいました。

オックスフォード英語辞書は毎年、「今年の言葉」を発表していますが、2016年世界の今年の言葉は「post-truth(ポスト真実)」だったそうです。
オックスフォード辞書のキャスパー・グラスウォールさんは、「ポスト真実」は「我々の時代を最もよく表す言葉のひとつ」になるかもしれないと選考理由を説明したそうです。
ちなみに、「post-truth」という表現が最初に使われたのは1992年だったそうです。

最近、世界で話題になっている「サピエンス全史」という本があります。
あまりの厚さに、私はまだ読む気にはなっていませんが、その本のキーワードは「詐欺」や「虚構」だそうです。
たとえば、農業革命は史上最大の詐欺。
そして、貨幣、国、宗教は虚構。

リチャード・ヴェルナーの「虚構の終焉」の表紙には、「フィクション・エコノミクス」という言葉が併記されています。
貨幣という虚構に基づいて、いまの経済は構築されているというのが同書のメッセージです。
それをベースに、その虚構の部分をていねいに解説されたのが天野統康さんの「〔詐欺〕経済学原論」です。
経済には、金銭経済と生活経済のふたつがありますが、それらは全く次元の違う話であることが、この2冊を読めばわかってきます。
ちなみに、私の経済の捉え方は、後者に基盤を置いているので、なかなかわかかってもらえません。

「サピエンス全史」の農業革命は史上最大の詐欺というメッセージは、視点を変えるということを示唆しています。
私は読んではいませんが、農業革命によって、「人類が小麦に家畜化されている」と書かれているようです。
主客を反転させると、見えなかったことがよく見えてきます。

虚構が悪いわけではありません。
「サピエンス全史」の著者は、インタビューでこう発言しています。
「虚構は重要で、価値があるものだと思います。なければ社会は成り立たない」。
しかし、その一方で、こうも語っています。
「文明が発達するほど、我々は不幸になっていく。なぜならその文明は「虚構」の上にもたらされたからだ」。
文明は私たちに利便性を与えてくれていますが、その裏で、不幸も与えているのかもしれません。

「ポスト真実」の時代には、虚構と真実を見分けるのが難しい。
というよりも、真実とは何かということが改めて、これまで以上に深い次元で問われることになるでしょう。
私自身は、虚構も真実も連続していると捉えていますので、すべてが虚構であり、すべてが真実です。
真実の裏には虚構があり、虚構の裏には真実がある。

「虚構新聞」の編集者が、社会の変化を感じたのは、2012年に、「橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化」と報じたときだそうです。
それがものすごい勢いで拡散し、「なぜウソの情報を流すのか」と次々に怒りの声が上がったのだそうです。
虚構新聞の記事の意味が、伝わらなかったわけです。
情報リテラシーが全く変わってしまったと言うべきかもしれません。
これも大きな問題です。

反知性主義につづく、「ポスト真実」。
知性と真実の捉え方を変えることが大切かもしれません。

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2017/01/08

■節子への挽歌3414:すぐに忘れることの良さ

節子
また昨日は挽歌をさぼってしまいました。
今年こそ毎日サボらずに書こうと思っていましたが、1週間ももちませんでした。

昨日は朝と午後、2つの集まりをやっていました。
以前は1日に4回くらいの全く別のミーティングをやっても、大丈夫でしたが、最近は2つもやるといささか疲れて、帰宅するとパソコンに向かう気が出てきません。
困ったものです。

昨日の午後のサロンには、10年ぶりで参加した人が2人います。
私は、基本的に「去る者は追わず、来るものは拒まず」ですので、こうしたことが起きるわけです。
そういえば、前回のサロンで、どんなに激しい言い合いがあっても私はすぐに忘れてしまうと言うような話になりました。
そんなこともないのですが、長い付き合いの、節子もよく知っている小林さんが、だからこのサロンが続けられているんですよ、と言いました。
そうかもしれません。
しかし、それは寛容とかさっぱりした性格ということではなく、たぶん私の生き方なのでしょう。
どんなものにも、良い面も悪い面もあり、そうであればその「良い」面だけを見るようにしようというのが、私の生き方です。
節子もそれを知っていますが、しかしだからと言って、悪い面が気にならないわけではないのです。
時にふと、その悪い面を思い出してしまうのですが、しかし、これまでの私の経験では、ほぼ例外なく、良い面のほうが大きいのです。
だから私は、誰でもが大好きなのです。
それに、嫌いと好きは、同じようなことですから。

ただ苦手な人はいます。
しかし、そういう人は、湯島には来なくなるので大丈夫なのです。

それにしても、何の効用もないだろう雑談だけのサロンに、毎回、いろんな人が来てくれる。
これは感謝しなければいけません。
昨日も、なぜか毎年1度は必ずやって来てくれる鷹取さんが来てくれました。
海外出張が多く、あまり日本にはいないでしょうに、なんで来てくれるのでしょう。
実に不思議です。
いつかみなさんにお返しができるといいのですが。

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2017/01/06

■節子への挽歌3413:気にかけてもらうことの幸せ

節子
今日はようやくがんばりました。
午前6時からずっとパソコンに張り付いていました。
山のように課題がたまっていました。
困ったものです。
年賀状のお返しどころではありません。
もう少し不義理が続きそうです。
もし該当者がいたらお許しください。

と言いながら、実は、テレビで放映された映画「オッデセイ」を見てしまいました。
ちょっと気分転換にと、3時のおやつの後にちらっと見ようと思ったのですが、なんと2時間半の大作で、結局最後まで見てしまいました。
ご覧になった人もいるでしょうが、火星に取り残された宇宙飛行士が奇跡的に生還するというSF映画です。
主役はマット・デイモン。
http://www.foxmovies-jp.com/odyssey/

奇跡の生還というと何やら感動ものですが、実にコミカルな軽い映画です。
専門用語も多いので、私にはあんまり理解できませんでしたが、なんとなくは伝わってきました。
あんまりリアリティはなかったですが、途中でやめる気にはならなかった程度に面白かったです。
ただし、節子向きの映画ではありません。

火星に取り残された主人公は、普通であれば絶望して自暴自棄になるでしょうが、彼は決してあきらめません。
そのうちに、地球の人たちに自分の生存が知られていることがわかります。
そして交信ができるようになる。
そうなれば、もう生きつづけられます。

今日も、テレビのニュースで、自分の存在を知ってもらいたくて、過激な映像をネットに流して逮捕された人が報道されていました。
人はどうして、自らの存在を他者に知ってもらいたいのでしょうか。
たぶんそうした事件を起こす人には、仲間や友達がいないのでしょう。
仲間や友達は、一人でもいればもう十分です。
一人の、心を許す人がいれば、人は必ず生きつづけられます。
心を許す人でなくても、誰かが私を気にかけていると思えれば、生きつづけられるでしょう。

しかし、あまりに気にかけられすぎると、いわゆるストーカー事件になってしまいます。
フランスではそれがまた殺人にまで行ってしまいました。
ただ、ストーカーの場合は、気にかけるのではなく、気にかけてほしいと相手に強要することですから、意味合いは全く違います。
むしろストーカーになる人は、相手のことを一切気にかけなくなるのでしょう。

この半月、怠惰に過ごしていましたが、いろんな人のことを思い出していました。
思い出しただけでは、その人には何も伝わらないかもしれませんが、もしかしたら伝わっているかもしれません。
なぜかそんな気もします。
そして同時に、私もいろんな人から時々でしょうが、思いをはせてもらっているのかもしれないという気がしています。
今日も何枚かの年賀状が届きました。
同じ地球上なので、火星にいるよりも、その思いは強く感じます。
「オデッセイ」を見た後、急にまた人恋しくなってしまいました。
パソコンよりもやはり肉声がいいですね。

明日はまた今年2回目のオープンカフェです。
どんな人に会えるでしょうか。

さてもう少しパソコン作業をしないといけません。
怠惰な暮らしは、やはりしてはいけません。
苦の後の楽は最高の幸せですが、楽の後の苦は、それはそれは苦痛です。
人生、地道に生きなければいけません。

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2017/01/05

■節子への挽歌3412:至福の世界

節子
久しぶりに彼岸につながるような夢を見ました。
節子がいなくなってから、時々、見る夢です。
なにやらとてもあったかいものに包まれて、この上ない至福の気持ちが、目が覚めてからも残る夢です。
節子が出てくるわけではありませんが、まちがいなく節子の雰囲気が残る夢です。
至福の気持ちは、目が覚めてもしばらくは残りますし、思い出してもなんだか心身があったかくなるような気がします。
特に「物語」があるわけではないので、内容を具体的に説明できないのですが、ともかく至福とはこういうことかと思えるような大きな光に包まれると言った感じです。
時には、何かに抱かれているという感じが残ることもあります。
しかし残念ながら、それはそう長く続くわけではありません。
しかもさらに進めば、もっと大きな幸せに包まれる気がしますが、そこに行く一歩前でいつも目が覚めます。
もしかしたら、死とは、そういうものかもしれないと、その夢を見るたびに思います。
もしかしたら、節子はそれを体験したのかもしれません。
至福の気持ちの先に、至福の世界がある。
私にはまだ、至福の世界は先のことなのかもしれません。

最近よく夢を見ます。
忘れてしまっていたような、思いもしない旧友が出てくることが多くなりました。
目が覚めると何を会話したかが思い出せませんが、旧友との出会いの感覚だけは強く残ります。

不思議なのは、夢で初めて会う人もいます。
どう考えても会ったこともない人が、夢の中では主役をつとめていることもあります。
有名人などでは全くなく、私がまったく知らない人です。
映画などでは、夢であった人に、その後、現実で会うということがありますが、私の場合はまだそうした経験はありません。
現世で会えないでいる人に、もしかしたら夢で会っているのかもしれません。
夢は実に不思議な世界です。

至福の彼岸と違って、現世には悩ましい問題が多いです。
夢であれば、どんな悩ましい問題も、目を覚ませば白紙にできますが、現世ではそうはいきません。
眠って起きても、消えていないのです。

今日からいろいろと活動を始めましたが、悩ましい問題ばかりで、せっかくの至福の余韻も、消えそうです。
でもまあ、至福の余韻に支えられながら、豊かな判断をしていこうと思います。
そのためにも、今年は、改めて「寛容」な生き方を意識したいと思います。
「寛容さ」を最近少し忘れ気味でした。
昨夜の夢は、それを思い出させるためだったのかもしれません。

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2017/01/04

■節子への挽歌3411:今年最初のサロン

節子
今日は最初のサロンでした。
いつもながら不思議なメンバーです。
節子の知らない人のほうが最近は多くなってきましたが、今日は節子の知っている昔の常連の人も来てくれました。
30年以上の付き合いだと、私のすべてをもう知っているでしょう。
そうした旧友と会うと、なんだかとてもホッとします。

昨年は1月3日にサロンをしましたが、湯島天神はすごい人出でした。
しかし今年は1日違いなのに、行列もできていませんでした。
例年よりも湯島天神は静かでした。
神田明神は相変わらずだったようです。
世相の流れが変わったのかもしれません。

昨日までは静かな毎日でしたが、今日は早速にいろんな人から電話もありました。
みんなそれぞれの年末年始を過ごしたようです。
良いこともあれば悪いこともある。
それを素直に受け入れられる歳になってきました。

今日はうれしい年賀状も届きました。
節子が生きるか死ぬかという状況の時に、死にたいと言ってきた人からのものです。
いまは元気でやっているそうです。
わずかばかりのお金を貸していたのですが、今年こそそれを返したいと書いてありました。
お金を返してもらうよりも、その気持ちのほうが嬉しいです。
自死したいと思うほどに追い込まれた人は、みんなやさしくなるのです。

父親を亡くして心に穴が開いてしまったというメールも届きました。
彼が大学院生の頃に会ったのですが、もう10年は会っていません。
にもかかわらず会いたいと言って来てくれます。
うれしいことです。
彼も看病のために苦労したようです。
若い時に苦労した人もまた、みんなやさしくなります。

こうして今年もまた、世間とのかかわりを始めました。
改めてみんなやさしい人ばかりだと思います。
厭世観など忘れなければいけません。

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2017/01/03

■節子への挽歌3410:最後までだらだらに終わってしまいました

節子
今日は兄の家にある両親の仏壇に挨拶に行きました。
以前は、お正月には必ず行っていたのですが、それぞれの子どもたちも大きくなるとリズムも変わってきて、このところあいさつ程度に終わっています。
今年は、娘も付き合ってくれたのですが、ちょうどお昼時になったので、みんなで食事に行こうということになってしまいました。
兄夫婦はもう80代ですが、ふたりとも元気です。
今日は誰も来客がなく、たぶん退屈していたのでしょう。
久しぶりに会食しました。

兄と私は、会うと必ず論争になるのですが、最近はお互いに歳のせいか、論争を避けるようになってきています。
お互いなにがあってもおかしくない歳ですから、悔いのないようにしなければいけません。
言い争った翌日、どちらかが急死したら、おそらく後悔するでしょう。
まあそんな歳になってしまったということです。
節子がいなくなってから、兄夫婦とこうして食事を一緒にするのは、法事のほかは初めてかもしれません。

そんなわけで、今日もまたあんまり「しゃん」とできずに、ダラダラ過ごしてしまいました。
食事にまで娘を付き合わせてしまったので、娘の午後の予定はだめになってしまいました。
兄夫婦はいつも会うたびに、私が何とか生き延びたのは、娘のユカのおかげだと言います。
たしかにそうかもしれません。
娘たちには感謝していますが、しかしこうも言えるのです。
もし娘たちがいなかったら、私も彼岸に行けたであろうにと。

これで三が日も終わります。
明日からはほんとうに「しゃん」としないと、新しい年がはじまりません。

節子がいない三が日は、いつも正直、とてもさびしい三が日です。

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■メガネを変えることも大切です

今年元日の朝日新聞は、「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」というシリーズ記事の最初のテーマとして、「試される民主主義」を取り上げていました。
社説でも、民主主義の暴走への歯止めとしての立憲主義を取り上げていました。
それだけではなく、民主主義を意識した記事が多かったような気がします。
どうやらいま、「民主主義」が再び捉え直されようとしているようです。
大方の予想に反して、トランプが当選してしまったアメリカ大統領選挙のせいかもしれません。
トランプが当選したことが、何か民主主義の間違いであるかのような議論も多いような気がします。

そういえば、英国のEU離脱の国民投票も、同じような報道や採りあげられ方でした。
英国人がいかにも「間違った判断」を下したように言う人が圧倒的に多かった。
私もそう思ったこともありました。
だが、問題は、そう思うようになった、私たちの情報環境にあるのではないかと、いまは考えています。
問題の捉え方を変えると、結果の意味も変わってきます。

英国民やアメリカ国民の判断の良し悪しはともかく、なぜ私たちの思ってもいなかった結果が最近増えているのでしょうか。
私たちが得ている情報が歪んでいるのではないか。
そのために、世界を見損なってしまい、予想もしなかった結果を体験しているのかもしれません。

情報の歪みは報道の問題だけとは限りません。
たしかに昨今のマスコミの報道は偏っているように思いますが、その気になれば、マスコミ以外の情報も私たちはかなり得られる環境にあります。
世の中にあふれている情報をどう選択するかは、まさに私たち一人ひとりの問題です。
それに同じ情報でも、その読み方によってまったく違った意味になることもある。
だとしたら、情報提供者の問題にするのではなく、自らの情報読解力の問題として考えることが大切です。
他者のせいにしていては、何も変わっていきません。

年末にメガネをつくったのですが、メガネをかけたら視界がかなり変わってしまいました。
初詣に行った時、神社で石段を踏み外しそうになったほどです。
その体験で、やはり時にはメガネを変えることが大切だと改めて思ったのです。

与えられる情報で世界を見ていることは、与えられたメガネで世界を見ているのと同じことであり、その内に、そのメガネで世界を見るようになってしまいます。
目に合ったメガネでなくとも、気づかないうちに、目がメガネに合わせられてしまうわけです。
同じ世界も、メガネによって違って見えてしまう。
そして、そのこと、つまりメガネ次第で世界の解釈が違うということを認識することがとても大切なのです。

自分に見える世界だけを他者に押しつけてはいけませんが、それ以上に、自分でない人が見ている世界を押しつけられていることに気づかないのは危険です。
情報は、与えられるものではなく、得るものなのです。
それを忘れてはいけない。

民主主義をどう捉えるかは、いろんな考えがあります。
しかし、みんなが同じメガネをかけて、同じ思考をするようになれば、せっかくの民主主義も活きてきません。
ほとんどのマスメディアが、トランプ当選を予想できなかったことは、いまや情報の世界が非情報の世界になってしまっていることを示唆しています。
まさに、非情報社会が到来したのかもしれません。

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2017/01/02

■節子への挽歌3409:怠惰の蜜

節子
今日もまた「シャン」とせずに、ダラダラ過ごしてしまいました。
実はお年始に行く予定だったのですが、箱根駅伝を見ているうちにタイミングを失してしまいました。
一度、何もしない怠惰の蜜を知ってしまうと、もう立ち直れません。
困ったものです。

しかし、それではいけないと思い、昨日届いた年賀状を読みました。
人生にはいろいろあります。
実にいろいろとある。
そしてパソコンに向かってフェイスブックを開いたのですが、そこにいろんな人の年始メッセージがあるのに気づきました。
それをさかのぼって読んでいたら、1時間以上時間がたってしまいました。
しかしまだ見落としがありそうです。
いささか疲れてしまい、あきらめました。
どうもフェイスブックの表示ルールがわかりません。

昨年から始まった「祈り鶴プロジェクト」は半月、目の手術で外れてしまっているうちに、大きく動きだして、もはやついていけなくなってしまいました。
テレビなどでも報道されだしていますが、フェイスブックでたくさんのメッセージが届いていました。
いまさらあまり議論に入れないので、今度実際にメンバーに会うまでは読むだけにしようと思います。
これもまた、怠惰の蜜。

フェイスブックが中心になったのか、メールでの年賀メッセージはあまり届いていませんでした。
時代の変化は実に早い。
年賀メールを始めたのは、私はかなり早いころでしたが、いまやもう時代についていけなくなっているようです。

年が明けての一番早い相談は、意外なことに節子も知っている大川さんからです。
これもフェイスブックで送られてきました。
かなり具体的な相談なので、4日に会うことにしました。
怠惰に陥ると、こうした誰かが引っ張り出してくれる。
それを喜ぶか嘆くかは、迷うところです。

明日は年始訪問に行きましょう。
今年は来客はないでしょうから。
それに来客があっても、接待する料理がもうありませんし。

実に何もない三が日。
こうして没世間でいると世界はとても平和なような気がしてきます。

怠惰に生きることもまた、豊かな人生かもしれません。
ただ私にはたぶん、できない生き方でしょうが。

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2017/01/01

■節子への挽歌3408:今年も穏やかな年明けでした

節子
節子がいた頃と同じように、屋上で初日の出を拝みました。

201701011


初日の出の光を浴びると、心がとてもあったかくなります。
再発した後の年も、節子と一緒に拝んだ初日の出です。
いまかいまかと待っていたことを思い出します。

節子のいないお正月も10回目になりました。
今年は久しぶりに家族も一人増えました。
ユカががんばって、おせちなどを作りましたが、とてもいい出来でした。
節子の残した文化も少し感じながら、感謝しながらおせちをいただきました。
10年目でようやくみんな少し落ち着いてきたのかもしれません。
いや、私だけがそう感じるのかもしれませんが。

みんなで子の神様に初詣に行きました。
例年よりも人手が少なかったのが気になりましたが、穏やかな年明けです。
富士山も見えました。

年賀状も届きましたが、
私あてになっていますが、節子宛てと考えたほうがよさそうな年賀状もいくつかあります。
友澤さんご夫妻はお元気そうですし、節子の友人たちも元気そうです。
私は、節子を見送って以来、年賀状を出すのは一切やめています。
それでも毎年年賀状をもらいます。
節子は年賀状が好きで、いつも心を込めて書いていました。
その姿を今でも思い出します。

今日は、ほとんどの時間をリビングで過ごしました。
いつもなら、どこかに出かけたくなるのですが、今年はそういう気さえ起きませんでした。
パソコンも、朝、ホームページを更新した以外は、開くこともありませんでした。
こんな元日は初めてかもしれません。

明日からは、少ししゃんとしようと思いますが、
それはそれとして、心煩わすことの全くない、実に平安な1日でした。
節子に感謝しなければいけません。

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■今年は歴史が善い方向に動き出す年になりますように

201701012


201601013


今年は久しぶりに地平からの初日の出が見られるかと思っていましたが、やはり雲のために、太陽が顔を出したのは数分後でした。
顔を出す前の雰囲気もとてもいいのですが、太陽が顔を出した途端に風景が一変していきます。
それからの数分は、世界に「いのち」が戻ってくるような、とても不思議な時間です。
「いのち」が息を殺している世界と動き出す世界。
でも私が生きたい世界は、その先の、「いのち」が普通に生きている世界です。
「いのち」が消えかかっているような、いまの世界は好きにはなれません。
昨年は、あまりにもたくさんのことに見舞われて、疲れ切っていましたが、
年末に2週間ほど、無為に過ごしたおかげで、意識に変化が起こりました。
今年も、これまでどおり、自らの「いのち」に誠実に生きたいと思っています。
1月4日と7日の午後、早速に湯島でオープンカフェを開店します。
近くに来たらお立ち寄りください。
ちょっと表情の変わったらしい私がいるだけですが。
面識のない人も歓迎です。
人はみな、友だちですから。
あたたかい陽光に包まれて、とてもおだやかな年明けです。
今年は、歴史が善い方向に動き出す年になることを祈っています。
「いのち」に恥じない生き方が、それを可能にしてくれるでしょう。
今年もまたお会いできますように。

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