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2017/01/23

■2つの民主主義

先日のリンカーンクラブのサロンでも話したのですが、リンカーン大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」という理念には、2つの考え方が包含されていると思います。
「人民の、人民による政治」と「人民のための政治」です。
それが一致するのが一番望ましいでしょうが、実際にはそれはとても難しい。
なぜなら「人民」という概念が、あまりに包括的であいまいだからです。
そこで、私は2つを別に考えたほうがわかりやすいと考えています。

「人民の、人民による政治」は、政治を執行する主体が「人民」ということです。
いわゆる直接的民主主義で、これこそが、本来的な民主主義の理念ではないかと思います。
衆愚政治とかポピュリズムという言葉が、最近は否定的に使われますが、人民が主役であるならば、まさにそれこそが「人民の、人民による政治」です。
そもそも衆愚という言葉自体が、人民を対象化した捉え方で、人民とは違った「賢い存在」があるという前提に基づいています。
先日のリンカーンクラブの公開フォーラムで、「愚民」という言葉が「学者」や「有識者」から発せられましたが、そうした発想を持つ人には、「人民の、人民による政治」は恐ろしい発想でしょう。
もし民主主義に価値を少しでも置くのであれば、人民を信頼しなければいけません。
不都合な人民を「愚民」と言って排除する発想は、民主主義とは真逆な発想です。

「人民のための政治」は、政治の目的が「人民の幸せ」だとする政治です。
政治の主体は、そこでは問題になりません。
王が民衆の幸せを目指す善政を行うのであれば、それは「人民のための政治」です。
民主主義の理念を、個人の尊厳の尊重と捉えるのであれば、これもまた民主主義の一つと言っていいと思います。

「人民の、人民による政治」が、必ず「人民のための政治」になるとは限りません。
多様な価値観を持ち、多様な立場にある「人民」は、まさにその多様性のゆえに、政治の主体(主役)と客体(対象)はそう簡単にはつながらないからです。

おそらく多くの人は、「人民のための政治」を求めているように思います。
自らが政治の主体になるよりも、自らを幸せにしてくれる人に政治を託したいと思うのは、合理的な判断です。
それは決して「愚民の判断」ではありません。
そしてそれもまた立派な民主主義だと思います。
ただ代表になった政治家が、「人民のための政治」から逸脱しないようにする仕組みが必要であることは言うまでもありません。

しかし、ここにも大きな落とし穴があります。
「人民のため」とは何か、「人民の幸せ」とは何かという問題です。
この点に関しての議論はあまりありませんが、最近話題になっているユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」には、その問題意識があります。
著者は、その本の最後にこう書いています。

私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。

私はその問いかけに全面的に共感します。

私自身は、「人民の、人民による政治」のほうに民主主義の本質を感じています。
それは「幸せ」ということをどう捉えるかということにもつながっています。

トランプ大統領の就任演説にこんな言葉がありました。

We are transferring power from Washington, D.C. and giving it back to you, the people.

私は、この最後の“to you, the people”という言葉が、とても気になりました。
これについては明日また書こうと思います。

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