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2017/01/08

■節子への挽歌3414:すぐに忘れることの良さ

節子
また昨日は挽歌をさぼってしまいました。
今年こそ毎日サボらずに書こうと思っていましたが、1週間ももちませんでした。

昨日は朝と午後、2つの集まりをやっていました。
以前は1日に4回くらいの全く別のミーティングをやっても、大丈夫でしたが、最近は2つもやるといささか疲れて、帰宅するとパソコンに向かう気が出てきません。
困ったものです。

昨日の午後のサロンには、10年ぶりで参加した人が2人います。
私は、基本的に「去る者は追わず、来るものは拒まず」ですので、こうしたことが起きるわけです。
そういえば、前回のサロンで、どんなに激しい言い合いがあっても私はすぐに忘れてしまうと言うような話になりました。
そんなこともないのですが、長い付き合いの、節子もよく知っている小林さんが、だからこのサロンが続けられているんですよ、と言いました。
そうかもしれません。
しかし、それは寛容とかさっぱりした性格ということではなく、たぶん私の生き方なのでしょう。
どんなものにも、良い面も悪い面もあり、そうであればその「良い」面だけを見るようにしようというのが、私の生き方です。
節子もそれを知っていますが、しかしだからと言って、悪い面が気にならないわけではないのです。
時にふと、その悪い面を思い出してしまうのですが、しかし、これまでの私の経験では、ほぼ例外なく、良い面のほうが大きいのです。
だから私は、誰でもが大好きなのです。
それに、嫌いと好きは、同じようなことですから。

ただ苦手な人はいます。
しかし、そういう人は、湯島には来なくなるので大丈夫なのです。

それにしても、何の効用もないだろう雑談だけのサロンに、毎回、いろんな人が来てくれる。
これは感謝しなければいけません。
昨日も、なぜか毎年1度は必ずやって来てくれる鷹取さんが来てくれました。
海外出張が多く、あまり日本にはいないでしょうに、なんで来てくれるのでしょう。
実に不思議です。
いつかみなさんにお返しができるといいのですが。

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コメント

湯島の方々のサロンは、談論風発というのともウィットや会話の妙を楽しむといったスノッブなものとも違って楽しいです。特にみんなが参加して会話する完全な雑談の時は。
どなたかの独演会になってしまう時はちょっと私は苦手で、疑問を挟んでしまいがちです。すみません。

私は、たぶん佐藤さんがイメージされている意味の「スピリチュアル」な人間ではありません。今巷で言われている流行語としてのスピリチュアル、テレビや芸能人や芸能人まがいの霊能者や流行りもののファンシーな本でのスピリチュアルは、私は大嫌いです。


私は押し付けることもしませんし、私自身の理解もまだまだだと思っています。私ができるのは、私自身を悲しみのどん底から救ってくれ、疑って考えて理性と論理と他の研究者の言葉と照らして心の底から納得できたもの、金銭や権力ともまったく無縁なもの、こんなものが存在します。どうですか?と、ただ、お知らせすることだけです。
なので、佐藤さんが計画されている「スピリチュアル」のサロンには、私はなんの役にも立たないと思います。正当性を競い争うようなディベートは、私はしたくありません。攻撃されれば、反論しなければらなず、それは私もつらいですし。。
何卒ご容赦ください。

(私もたぶん苦手な人のひとりでしょうね。。)

投稿: 小林正幸 | 2017/01/09 11:14

小林さん
私が考える「スピリチュアル」な人間とは、自分を生きている人のことです。
だから私には小林さんは「スピリチュアル」な人間なのです。
流行語としての「スピリチュアル」にはまったく関心はありません。

念のためですが。

投稿: 佐藤修 | 2017/01/09 21:43

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