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2017/01/29

■節子への挽歌3428:見返りのない贈与

節子
見返りのない贈与ができることこそが、最高の至福であることは、間違いありません。
しかし、見返りのない贈与をすることはとても難しく、その機会を得ることはそうはありません。
夫婦や親子は、そうした関係を持ちやすい存在ですが、それでもそれなりに難しいものです。
昨日、湯島でサロンをやっていて、贈与が話題になりました。
そのやりとりを聞きながら、そんなことを考えていました。

贈与は、見返りを意図しなくとも、多くの場合、相手に負担感を与えることで、人間関係に影響を与えます。
ですから、何らかの形で、贈与は相互行為になりがちです。
見返りのない純粋贈与の典型として、母子関係があげられますが、私は母子関係の存在があるだけで、すでにそれは非対称ではありえないと思っています。
夫婦の場合は、どうでしょうか。
考えれば考えるほど、夫婦とは不思議な関係です。

私は、なぜかいろんな人から「贈与」を受けます。
それに見合うお返しは、あまり出来ていません。
しかし、それはいつかまた、できる時に「恩送り」させてもらえるでしょう。
輪廻転生を信じていますから、現世で収支を合わせられなくとも、どこかでバランスはとれていると、勝手に思い込んでいます。

贈与は受けるよりも与えられる方が幸せなことは言うまでもありません。
そういう点では、最近少し幸せではなくなってきているのかもしれません。
特に、見返りとは全く無縁な贈与のやり取りの日常がなくなったことが、やはりとてもさびしいです。

先日、ある本で、レレ族という狩猟民のセンザンコウ祭儀の話を読みました。
センザンコウは、アリクイに似た哺乳類動物ですが、レレ族はセンザンコウを精霊動物としているため、狩猟の対象にはしません。
しかし、祭儀のときには、センザンコウを供犠の生贅にし、その肉を食べるのだそうです。
そして不思議なことに、祭儀の日に、センザンコウが「キリストのように」進んで集落にやってくるのだそうです。
自らを見返りのない贈与として、供犠になるためにやってくる。
とても考えさせられる話です。
そんなことも、昨日は考えていました。

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