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2017/02/02

■節子への挽歌3435:「死のにおい」はあっても「死の気配」は全くない

節子
最近のブログには、なにか「死のにおい」がするかもしれません。
書いていて、自分でも少しそんな気がします。

フェイスブックに、友人が自殺した友と消息を絶った友へのメッセージを書いていました。
そしてその記事が、連絡がつかなくなった友に届くように、シェアしてほしいと書いてありました。
その記事をシェアした時に、書き手のkenさんへのメッセージを書き添えました。
「kenさんも、また湯島に顔を出してください。私が遠くに行く前に」
kenさんがコメントを返してきました。
「佐藤さんはたまにぞっとするような冗談をおっしゃるので…」
どこが「ぞっとする」のかわかりませんが、やはり「死のにおい」があるのでしょう。

最近、訃報が多いので、いささか気が滅入っています。
死とはやはり、残された者にとって大きな意味があります。
どうせ彼岸でまた会えるから、などといえるのは、よほど親しい間柄の場合です。
彼岸は、たぶん此岸よりも人口が多いでしょうから、なかなか会えないかもしれませんし、相手によっては、現世のうちに、一応の「人生の整理」をしておきたいような人もいます。
しかし、いささか気になるのですが、年賀状も来なかった人がいます。
もう一度会っておきたいと思いながら、遠いためになかなかお会いできないまま数年が過ぎてしまっていた人です。
そう思い出すと、気になる人がどんどん出てきます。
ということは、私が不義理をしている人がそれほど多いということです。
最近、私の交流の手段は、ネット中心になっています。
手紙はめったに書きませんし、電話は嫌いなのです。
手紙は字が下手ですし、電話は相手の顔が見えないためにうまく話せないのです。

携帯電話は持っていますが、めったに使いません。
持ち歩くことも少ないので、かかってきても出ない場合が少なくありません。
留守電もめったに聞きません。
電話は昔から好きではないのです。
相手の顔も見ないで話していると、うまく話せずに、時に感情的になったりしたりして、電話を切った後、いつも後悔するのです。

有線電話よりも無線電話のほうが、私には向いていると思います。
しかし残念ながら、私には霊界通信やチャネリングはできません。
その気になれば、彼岸との交流はできないわけではないとは思っています。
要は、自分さえ納得すれば、会話はできるのです。
その相手は、現世にいようといまいと、そう関係はありません。
現世にいるからと言って、そう会えるわけでもありませんし。

話がずれてしまいましたが、最近の挽歌からは「死のにおい」がするかもしれませんが、私の周辺には幸か不幸か「死神」の気配はまったくありません。
今日も歯医者さんで血圧の話題になり、血圧の薬を飲むようにと帰り際に心配してわざわざ注意しに来てくれましたが、「死のにおい」はあっても「死の気配」は全くないので、大丈夫ですと話してきました。
まあ歯医者さんに行く時だけ、血圧の薬を飲むようにしましょう。

死とは、もしかしたら「選ばれた人」へのご褒美なのかもしれません。
そんな気が、この殺します。
節子が先に逝ったことを何とかして正当化させたいという気持ちが、いまもまだ私の中には大きくあります。
なかなかその呪縛からは解放されません。

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