■節子への挽歌3439:呼び方の文化
節子
先日、歯医者さんでお孫さんは大きくなりましたか、と訊かれました。
だんだん人間らしくなってきましたが、まだ人間の言葉は話しません、と応えたら、「じじ」と呼ばせるのですかと、質問されました。
それで、わが家の文化は、名前で呼ぶのです、と説明しました。
「おさむくん」ですか、とまた訊かれたので、「くん」は嫌いなので、「さん」づけか呼び捨てですと答えました。
わが家の文化といいましたが、節子はあんまり賛成ではなかったので、私の文化というべきかもしれません。
娘たちも、特に上の娘は、私のことを名前では呼びません。
お父さんと呼びます。
小さいころは、「お父さん」ではだれのお父さんからわからないので、名前で呼んでよと頼んでいましたが、彼女にはそれはあまり受け入れてもらえませんでした。
下の娘は、名前で呼んでくれることもありましたが、やはりなかなかそうはならないようです。
人の名前は、個人の名前で呼ぶべきだというのが私の考えですが、どうもあまり一般的な考えではないようです。
節子は、それでも夫婦の間では名前で呼ぶことには賛成でした。
ですから私たちは、基本的に名前で呼び合っていたわけです。
今も毎朝私は、仏壇に向かって、「節子、おはよう」と声をかけています。
しかし、実はその「私の文化」とは矛盾しているのですが、むすめたちに対して、私は自分のことを「お父さん」と呼んでしまっています。
最近気づいたのですが、それが娘たちが私のことを名前で呼ばなかった理由かもしれません。
節子にも、娘たちに私のことを言う場合は、「おさむ」と呼ぶように言っていましたが、「お父さん」と言っていたような気がします。
それでよく、「私は節子のお父さんではないので、その言い方はやめてほしい」と頼んだこともありますが、節子はその他のミーティングは適当のかわしてしまっていました。
困ったものです。
私を心底信頼していた節子さえも、変えられませんでした。
個人の文化を、家の文化にするには、そう簡単なことではないのです。
人をどう呼ぶかで、その人との関係性が決まってきます。
だから私は、どんな人でも、基本的に「〇〇さん」と呼ぶようにしています。
しかし、多くの場合、名前ではなく苗字のほうが多いのです。
このこともまた、私の基本的な考えを象徴しています。
というよりも、日本では苗字ではなく名前で呼ぶのが、いささか礼を失するところがあるような気がして、徹底できなかったのです。
私の文化も、いささか首尾一貫していません。
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