■節子の挽歌3438:病院アレルギー
節子
昨夜、久しぶりにHさんからのメールが届いていました。
Hさんといっても、節子は知らないと思いますが、私には節子とのつながりで記憶に強く残っている人です。
節子が逝ってしまってから1年ほどだったでしょうか。
あまり正確には覚えていないのですが、Hさんからある調査に協力してくれないかという連絡がありました。
それは、「病院」に関する調査プロジェクトでした。
Hさんには、私が立ち上げた、病院のあり方を利用者の視点で考えなおすヒポクラテスの会に参加してもらっていた関係だったかもしれません。
節子を見送った後、私は「病院アレルギー」になってしまいました。
当時は、病院や病気という文字を見ただけで、心が縮まるような状況でした。
長生きのためにとか、健康が一番、などといった言葉にさえ、反発を感じたほどでした。
その頃に、Hさんからの誘いだったために、事情を話して断らせてしまいました。
しかし、しばらくしてから、後悔しました。
むしろ、だからこそ、関わるべきだったと思ったのです。
病院に関して思っていたことは山のようにありましたから。
それからしばらくして、今度は私が何かでHさんに案内を出したことがあります。
Hさんはアメリカに転居することになったという連絡がありました。
以来、ご無沙汰が続いていました。
以上が、いまの私の記憶なのですが、
これを書きながら、もしかしたら私の記憶が間違っているような気がしてきました。
人は、自分の記憶したいように過去をつくりかえていきます。
特に、私の場合、節子の闘病や見送った直後の記憶は、とても曖昧です。
つくり替えることもあるでしょうが、その前に、記憶そのものが危ういのです。
あの前後5年の私の記憶は、全体像がなく、個別の事象だけがやけに生々しい、おかしな記憶ばかりです。
Hさんとは近々会えるでしょう。
彼女と話せば、私の記憶が正しかったかどうかがわかるでしょう。
ちなみに、最近はもう「病院アレルギー」はなくなっています。
それに2回も、私自身が入院しました。
それでも、いまでも「長生きが幸せ」という文字は、好きになれません。
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