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2017/03/07

■節子への挽歌3471:とても寒い、重い1日

節子
寒い1日でした。
あまり体調が良くなかったのと昨夜の寝不足もあったので、予定を延期してもらい、1日、自宅で過ごしました。
それはよかったのですが、「死」に関する本ばかり読んでいました。
正確に言えば、「看取り」に関しての本や雑誌ですが。
図書館に行って、何冊か借りてきたのです。

窓口で、古い雑誌を探すように頼んだら、その人は面識のあるMさんでした。
3.11の後、福島に応援で2年ほど行っていた人です。
一度、わが家のサロンに立ち寄ってくれた人です。
Mさんも、福島の被災地でいろんなことを体験してきたはずです。
Mさんに限りませんが、みんなそれぞれにいろんな体験をしています。
そんなことを考えながら、何冊かの書籍や雑誌に目を通しました。

波平さんの「日本人の死のかたち」にはさまざまな死の物語が紹介されていました。
アルフォンス・デーケンさんの「死とどう向き合うか」にもまた、死に関わるいろんな話がありました。
3年ほど前の文藝春秋は、死に方と看取り方の特集がなされていました。
今日は、こういう本を午後、ずっと読んでいたのです。
さすがに気が沈んでしまいました。
ちょっと読みすぎました。
外は冷たい雨。
とても寒い、重い1日でした。
たまにはこういう日もあっていいでしょう。

不思議なことに、私には「死へのおそれ」の意識がありません。
節子を見送る過程で、あるいは見送った後に、「死へのおそれ」はすべて使い尽くしたのかもしれません。
死のおそれの実体は、もしかしたら「別れのおそれ」かもしれませんが、そうであれば、私には今やそれは全くありません。
娘たちとの別れも、私が去るほう、つまり看取られる方であれば、まったくと言っていいほど、恐れはありません。
それに多くの場合、親が先に逝くのは自然の理ですから、子どもにとっての喪失感は伴侶の死とは比べようもないでしょう。

そろそろ人生の締めくくり方を考えなければならないのかもしれません。
そう思う一方で、まだ自分はどこか「看取られる側」ではなく「看取る側」にいると考えている自分がいます。
人間とは、度し難いほどに、自分のことがわからない存在なのかもしれません。
今日はたくさんの死の話を読んだにもかかわらず、やはりどこかで他人事のような気がしているのです。
困ったものです。

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