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2017/03/12

■節子への挽歌3478:「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」

節子
ホスピスの医師の小澤竹俊さんの書いた「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」という本を読みました。
そこにこんな文章がありました。


なんでもない今日に感謝できる人は、本当の幸せを知っている。
どんな成功の日々も、平凡な日常に勝らない。
ただ生きているだけで、十分に価値がある。

小澤さんは、「今日が人生最後の日」と想像したとき、わかることはたくさんある。
そのひとつが、日常というもののありがたさだと書いています。
このことはよく言われることですが、節子もまさにそう実感していました。
節子がいなくなってから、少ししてその意味が私もよくわかってきました。
頭ではもちろんその前からわかっていたつもりですが、数年たって、しみじみと実感してきたということです。

最近、死に関わる本を読み続けていますが、別に私自身が死を意識しているわけではありません。
むしろ、当面死ぬことをやめる決断をしたのです。
93歳まで生きることにしました。
かなり先が長いのですが。

なぜ93歳かといえば、前にも書いたことがあるかと思いますが、30年近く前に、ある人が私の運勢を京都の高名な方に占って来てくださったのです。
その人自身も、ちょっとその道にも通じている人なのですが、私と一緒に仕事をしていいかどうかを判断するためだったような気がします。
93歳まで生きるということが理由ではなかったと思いますが、私は彼の仕事の相談役的な形でかなり長く付き合いました。
そのプロジェクトはうまくいったので、いまは私の役目はなくなりました。

93歳を素直に守ろうかどうか迷うこともあるのですが、この数週間、なんとなく93歳まで現世に留まる気分が強まっています。
まあそんなに自らの生きる期間を勝手に決めていいのかどうか疑問もありますが、まあ決めておいた方が何かと都合がいいでしょう。

それではなぜ死の関係の本を読んでいるかです。
それは、看取るという文化が気になりだしたのがきっかけですが、いろんな本を読んでいるうちにますますわからなくなってきてしまい、読んでいる本に参考文献があるとそれをついつい読みたくなって、とまらなくなってしまったのです。
でもまあ、そろそろ打ち止めにしようと思います。

小澤さんが言うように、もし今日が「人生最後の日」だとしたら、死の本を読む必要はありません。
まもなく、体験できるのですから。
では、なにをするか。
その答えはなかなか難しい。
なぜなら、93歳まで生きることを決めてしまったからです。
小澤さんのメッセージを全く理解していない、悪い読者です。
困ったものです。はい。

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妻への挽歌17」カテゴリの記事

コメント

93歳まで生きると決めたとおっしゃる佐藤さんが、かわいく感じ、また厳しさや強さを感じ、羨ましく思い、尊敬します。
幼少期のころから遊びと戦い、勉強するという、努力で、精神的力をお持ちの、私は東大卒の佐藤さんとは、頭の構造が違います。、
人の感想はそれぞれで、思いもよらない事を考える人がいることもご存じと思いますので、不謹慎で書いてはいけないかもしれませんが、
コメントを残させていただきます。

私はスイスへ、安楽死旅行に行きたいです。
理想は、夢のある高級なホテルの一室で、自分の愛する亡くなった人達に会える、楽しい夢が見られる薬を飲み、
お酒に酔うように、死に連れて行ってくれるガスが体に充満し、雲の上のような温かくホカホカのベッドで、
空を飛んでいる気分のまま、苦しみの無い最期を一日も早く迎えたいです。

(悩み)
私は悩みを抱えています。
恨みや憎しみではなく、疑問や納得できない悩みです。
これによって生活が脅かされ、さらに変化し、苦しいのですから、先が見えない恐怖、不安、絶望を感じたりしますが、
これによって早く死にたいと思う気持ちはありません。疲れ果てましたが、闘争心や、意地で、自分から死ぬものかと思います。

(亡くなった愛する人に会いたい)
失って初めて感じる「愛」でしょうか、大切さ、親不孝者で我儘な身勝手な思いです。
懺悔の気持ちからでしょうか?強欲な私は、生きる事の意味を考えた事はありませんでしたが、大切な人と死別し、初めて、
何のために生きるのかと疑問を感じ、会えるはずのない人を探したくなります。あの人と一緒だったから、生きたいと思い、生きる価値があった。
あの人と一緒だったから生きる意味があった。死別してしまい、二度と会う事ができず、一緒にいられないなら。
あの人達と一緒でなければ生きる意味がない、と感じるようになり、生きるのはもう十分だ、止めたいと思うのです。
私の周りの全ての人が亡くなってしまったわけではありません。
人恋しくなったら、用事もないのに電話し、一緒にお茶を飲める、今までと変わりなく、私に付き合ってくれる人がいます。
佐藤さんと同じように、亡くなってしまった大切な人が、傍にいることを感じる事もできるので、寂しくも悲しくもないのに、
一緒にいた人がいないから、また一緒に生きたいから、早く死にたいのです。

1か月前に風邪をこじらせ、中耳炎で両耳の鼓膜を切られました。
一瞬ですし、注射のような、たいした痛みもないのですが、私は子供のころから、注射などの些細な事でも、異常な恐怖心があり、
医師や看護師の方から、「赤ん坊だって我慢するんだ」と笑われ叱られ、いつもお祈りし、心の中で「助けて」と叫びながら、死んだ気持ちで受けていました。
お世話になった父の親友や、父の介護をしていた時は、怖がる父などに、自分の事のように怖いけど「私がいるから大丈夫」などと慰めていましたが、
年老いた今、病気になって、手術や、注射の事を考えたら、益々一日でも早く死にたいと思うのです。ご病気の方からは叱られる話ですが・・
生きるとは何ですか?どうしたら、93歳まで生きたいと思えるのでしょうか?

なんでもない今日に感謝できる人は、本当の幸せを知っている。
どんな成功の日々も、平凡な日常に勝らない。
ただ生きているだけで、十分に価値がある。

この言葉は、大切な人と一緒に生きていた日々には、心を打ったでしょう、無職で、大切な人を失った、今の私には響きません。
今から何か始めればよいのですよね、現在自分の周りにいる人や、これから出会う人達を大切に思い、生きる意味を探し続ければいいのですよね。

投稿: tugi | 2017/05/04 16:42

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