■カフェサロン「子どもの世界から見えてくる私たちの生き方」報告
カフェサロン「子どもの世界から見えてくる私たちの生き方」は、平日の夜にもかかわらず、16人もの参加がありました。
終了後も参加者同士の話が終わらず、みなさんの関心の高さを感じました。
前半では、室田さんが自らの保育園・子ども園で長年取り組んでいる「エピソード記述」によるカンファレンスを模擬的にやってくださいました。
まず、室田さんが用意した、保育士が書いたエピソード記述(背景・エピソード・考察から成り立っています)を読み上げ、それについて参加者が語り合うという設定です。
室田さんは、ファシリテーター役ですが、それぞれの意見に対して、気づきや思考を深められるように、問いかけをしたり、自分の考えを語ったりするのです。
模擬カンファレンスに先立ち、室田さんは、「間主観性」と「両義性」、あるいは「書くことは考えること」などという、「エピソード記述」の基本にある考え方を少しだけ話されましたが、そうしたことを抽象的にではなく、体験的に示唆してくれたわけです。
そこからさまざまな議論が展開しました。
そうしたなかから、人が生きる意味が、それぞれのなかに浮かびあがるという趣向です。
日々、子どもたちと誠実に付き合っている室田さんならではの発想だと思います。
話し合いの中では、室田さんのファシリテーションのもとに、具体的な感想が深掘りされ、言語化されていきます。
今回は、エピソードの書き手が、子どもから学んでいることに室田さんはやや重点をおいていたように感じますが、そこに室田さんが考える「子どもと保育士の関係」(さらには「親子関係」)を感じました。
教える保育ではなく、学び合う保育といってもいいかもしれません。
さらには、具体的な事例から、たとえば「私は私,でも私は私たちの中の私」というような、人の両義性といった普遍的な論点が可視化されていきます。
模擬カンファレンスでは、エピソード記述の、「かわいい」という言葉に、「かわいい」と言葉にした途端に思考停止になるのではないかという指摘がありました。
発言者自身も、保育士の資格を持ち、広い意味での保育活動に取り組んでいる若い女性ですが、現場感覚からの意見でしょう。
「言葉」が思考停止を生み出すという指摘に、私はとても興味を持ちました。
話し合われた話題はいろいろとありますが、いつものように、それは省略します。
生きた言葉を文字にすると、変質してしまうからです。
ただ報告者の特権として、私が一番興味を持ったことを書かせてもらいます。
それは、2人の男性が、エピソードの記述が「ふわふわした文章に感じた」「文章が長い」と発現したことでした。
それが悪いという指摘ではなく、そう感ずるということです。
私はそういう印象を全く持っていなかったのですが、言われてみるとその通りです。
発言はしませんでしたが、企業や行政という組織の中でも、こういう「ふわふわした長い文章」が主流になったら、世界は変わるだろうなと思いました。
そこでの文章形式は、その組織の文化を象徴しています。
効率性を重視する企業のなかの文章は、論理的で簡潔であることが重視されます。
でも、そこにこそ問題はないのか?
この議論は、いつかもう少し深めたいと思います。
とても大きな意味を持っていると思うからです。
エピソードによるカンファレンスの効用は、保育士の世界を広げ、コミュニケーションの力を高めると同時に、組織文化を高めていく効用があることがよくわかりました。
これは保育園に限らず、企業でも福祉施設でも、さまざまな組織で効果的な手法だと思いました。
「エピソード記述」をよく知っている2人の保育園長も参加してくれましたが、ほかの参加者は全員、「エピソード記述」未体験者した。
今回は、「エピソード記述」を多くの人に知ってほしいということが目的の一つでしたが、学童保育や高齢者に関わっている人たちが、自分たちの活動に取り入れてみようと考えてくださったのはうれしいことです。
しかし、話し合いが盛り上がったため、時間がなくなり、こうした活動を踏まえての室田さんの社会観がきちんと聞けなかったのがちょっと心残りでした。
後半は、そうした室田さんの社会観も含めた、「この国の未来」をテーマにしました。
室田さんの問題提起は、「近代をカッコでくくると、現代から近代的なものを差し引くことになります。いったい、何がのこるのでしょうか」という問いかけから始まりました。
そして、室田さんの展望が紹介されました。
これもまた刺激的なテーマでした。
後半が始まった直後に参加した久保さんが、フーコーの国家論まで言及したので、話が大きく広がってしまいましたが、自立とは何か、共同体とは何か、ガバメントとガバナンスといった話にまで行きました。
時間の関係で、これも話したりなかった人が多かったと思います。
私が少し話しすぎたことをとても反省しています。はい。
ところで、あくまでも私の印象ですが、前半と後半とでは話し合いの主役が違っていたような気もします。
前半は女性が主導、後半は男性が主導という雰囲気でした。
これも私にはとても興味深かったです。
大切なのは、前半のようなミクロな生活次元と後半のようなマクロな文化次元をどうつなげていくかかもしれません。
「ふわふわした冗長な」長い報告になってしまいました。
書いているうちに、いろんなことに気づいた自分に気づきました。
室田さんが言われたように、「書くことは考えること」だと実感します。
参加者が多かったため、十分発言できなかった方が多かったと思いますが、お許しください。
またいつか、パート2を開ければと思います。
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