■節子への挽歌3465:「看取る」ということ
節子
時評編に書いたのですが、昨日、ちょっと思いついて、フェイスブックに「「看取り」という日本語に当てはまるような外国語をご存知の方がいたら教えてくれませんか」と問いかけをしました。
数名の方からコメントがありましたが、私の意図とは全く違いコメントでした。
それについても時評編に書きましたが、やはり「看取り体験」のある人とない人との発想の違いを感じました。
それは仕方がないことですが、改めて節子から学んだことの大きさを感じました。
ありがとう。
ところで、みなさんの書き込みへの返信を書いているうちに、ますます「看取り」ということに興味が深まってきました。
チベット密教のバルドゥのことは、この挽歌でも書きましたが、その時にはあまり深く考えていなかったのですが、いま考えると、その49日間で死者と遺されたものとの新しい関係の構築がそこで行われるのかもしれません。
つまり死者の生き返り儀式であり、実は彼岸への旅立ちではなく、次元を超えた新しい生の誕生儀式とも考えられます。
そこでは、生と死が溶解されています。
まだ思いついたばかりで消化できていないのですが、何かそこには大きな示唆を感じます。
看取りということをもう少し考えたくなってきました。
あるいは、「寄り添い」ということも、です。
「看取りサロン」「看取られサロン」「寄り添いサロン」が実現できないか、考えだしました。
どうも日に日にやりたいことが増えてきます。
昨日、久しぶりに渕野さんにあったら、どうしてそんなにいろんなサロンができるのかといわれました。
次々とやっていないと逆に全くできなくなるんだよと応えましたが、それを心身が感じているのか、最近のさまざまな好奇心の高まりは我ながらいささか以上かもしれません。
たぶん節子がいないせいでしょう。
困ったものです。
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