■節子への挽歌3466:「同質」と「異質」
節子
また武田さんと論争してしまいました。
節子がいなくなっても、相変わらず、お互いに一触破綻に近い論争は止まることはありません。
困ったものです。
今日も、民主主義を深化させる妙案が思い浮かんだと武田さんが電話してきました。
せっかくのアイデアをいつも否定されるけれど、まずは佐藤さんに伝えたいと言ってきたので、内容を聞くとけなしたくなると悪いので、最初に感想を言っておくよ、と言って、「それは素晴らしい案ですね」と伝えてから内容を聞きました。
残念ながら、相変わらず私にはまったく賛同しかねるアイデアでした。
そこで、いつものように、否定してしまいましたが、それから論争が始まったわけです。
30分も経つうちに、だんだん険悪になってきて、どちらかが電話を突然切ってもおかしくない状況になったのですが、幸いにお互い、死期が近いこともあって、つまり一度切れてしまうと修復不能になるかもしれないという自覚が生まれてきたこともあって、ぎりぎり何とか乗り越えられました。
しかし、お互いに発想の違いが、また明確になってきた次第です。
困ったものです。
考えの違いは、誰にもあります。
しかし、なんとなく同じなのに、違うというのが、悩ましいのです。
人は、自己充実志向と繋合希求性とを持つ両義的な存在だと言われます。
自分の世界に浸り切りたいと思いながらも、同時に他者とのつながりを求めてしまう。
それも、つながる他者は自分とは遠い人のほうが魅力的なのです。
しかし、同時に、異質であろうとどこかに同質なものがなければつながりようもありません。
そこが人間の面白いところです。
私と節子は、まさにそうした「同質」と「異質」が組み合わさっていたのです。
武田さんとも、どこかでつながっているのでしょう。
そうでなければ40年以上も付き合いはつづかなかったでしょう。
しかし、生き方も思考も、そして価値基準もむしろ真逆といった方がいいでしょう。
そういえば、昨日と今日、私のフェイスブックにコメントを書いてくれた一松さんも、私とはかなり考えが違います。
しかし、どこかでお互いに敬意を感じていて、つながるところがある。
これまた不思議な関係です。
武田さんと付き合わなければ、私ももっと平安の時間が増えるでしょう。
いや、武田さんばかりではありません。
ほとんどすべての人との付き合いが、私の平安の生活を乱しています。
こんなことを書くと大変傲慢に聞こえるでしょうが、みんなもう少し自立してよと言いたいことが山ほどあります。
他者と付き合うと、そういうストレスがどんどん積みあがっていく。
だからできれば、誰とも付き合いたくないのです。
友人がいなければ、どんなに平和だろうと思います。
しかし、そうしたストレスがあるからこそ、人生は退屈せずに、豊かになる。
それもまた事実です。
これからも武田さんはじめ、みんなと喧嘩をしながら、あるいは腹を立てながら、生きていくことになるでしょう。
そして、それこそが実は支え合う生き方、豊かな生き方なのでしょう。
もし節子がいまもいたら、どんなことになっていたか。
それが確認できないのが、残念です。
いまも夫婦げんかをしていたでしょうか。
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