■節子への挽歌3477:東日本大震災から6年たちました
節子
今日は東日本大震災から6年目です。
節子が彼岸に行ってしまった後に起こったことですが、節子がいたらたぶん私の関わり方も大きく違っていたでしょう。
私にまだ正面から受け止める気力がありませんでした。
近くなのに、なかなか現地にさえいけませんでした。
現地に行けたのは1年以上たってからです。
その報道も、当初はなかなか受け入れられませんでした。
南相馬で見た集落の風景で頭から離れないものがあります。
海に近い集落のため、人家は跡形なく流されていました。
しかし、その上手の一画の墓地だけが、きちんと修復されていました。
バスから見た風景なので、私の見間違いかもしれませんが、自分たちの住む家よりも、先祖のお墓の修復を優先したのだと、私には思えました。
いや、もしかしたら、お墓だけは死者の力で守られていたのかもしれません。
幻だったのかもしれませんが、いまも頭の中に焼き付いています。
今日はどのテレビも、津波の再現やあの時の話が多かったです。
人の死を取り扱うテレビ報道番組は、私は苦手です。
どうしても違和感があるのです。
それはともかく、見ていて、生きることのもろさを考えてしまいます。
生と死を選ぶのは、ほんの一瞬のことなのです。
ということは、私もまた、いつ、その一瞬に出会うかもしれません。
そう思うと、死もまた日常という気になります。
しかし、死は決して日常なのではない。
普段は遠くにあって、しかし突然に出会うことになるのです。
そして、身近な人の死に出会うことで、死は全く違ったものになる。
それは、他者の死ではなく、自らの死なのです。
そこでは、自分と他者が溶解してしまっている。
節子の死は、私の死でもあるのです。
テレビで、キャスターが語っている死は、やはり観察的で、他人事として死を語っている。
だから、美辞麗句も多い、
私にはとても違和感がある。
私は、両親の死は素直に受け入れられましたが、なかなか受け入れられませんでした。
子どもの死の場合は、もっと受け入れられないでしょう。
そういう不条理の死が、大震災にはあまりにも多い。
しかし、それは当事者でしかわからない死です。
同情や感動などしてほしくないのではないか。
そんな気がしてなりません。
まあそんな理屈は横に置いて、私も黙禱しました。
そして、自然のメッセージをしっかりと心に刻みました。
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