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2017/03/02

■「看取り」という文化

昨日、フェイスブックで「「看取り」という日本語に当てはまるような外国語をご存知の方がいたら教えてくれませんか。日本独特の文化でしょうか。ちなみに、「ケア」に当てはまるような日本語も、何かいい言葉があれば知りたいとずっと思っています」と書き込みました。
数人の人からコメントをもらいましたが、どうも私の問いかけ方が悪かったようなので、もう一度、きちんと問いかけをしました。
このブログでも、問いかけさせてもらうことにしました。
関心がますます高まってきてしまったからです。

私が知りたいのは、死に寄り添うという意味の「看取る」という言葉です。
看病するという意味での「看取る」ではありません。

昨年から、湯島で「看取り文化」シリーズのサロンをはじめました。
できれば、看取りサロンのようなものを始めようと思っているのですが、
そこで、「看取り」という言葉、もしくは概念、文化が気になりだしたのです。

看病という意味での看取りであれば、当然、nursing でしょうが、
最近の「看取り」という言葉は、死に寄り添うという意味になっていると思います。
30年程前の大辞林には、そういう意味は出てきません。
看取りが死を看取るという意味に限定されてきたのは、日本でもこの数年ではないかという気がしてきました。
古語辞典などで調べても、私にはまだそういう概念の存在を見つけられずにいます。
昨日、万葉集の研究をしている友人にも訊いたのですが、
どうも万葉集には、看取るという言葉は出てこないそうです。
少なくとも、英語圏には、あるいはキリスト教圏には存在していないように思います。

言葉には文化が凝縮されていますが、逆に言葉になってこそ、概念は定着する、つまり文化になると私は考えています。
死にゆく人に寄り添い、最期を看取るという行為は、海外にもあるとは思うのですが、
それを一つの言葉で表現しているところはあるのかというのが、私の関心事です。
いまのところ、なぜか中央アジアあたりにあるのではないかという人に2人出会いましたが、実際にはまだ言葉は見つかりません。
私の関心は、あくまでも「一言に凝縮した言葉」、言い換えれば文化です。

ちなみに、逆に、ケアという概念を日本語に置き換えるとどうなるか、20年ほど前にコムケア活動というのを始めるときに考えたことがあります。
ケアは、一方的行為概念ではなく、双方向に動く循環的な関係概念だと私はとらえているのですが、それがなかなか伝わらないことに違和感があったからです。
「ケアの本質」という、メイヤロフの本が私が考え出したきっかけですが、どうも言葉に結晶しませんでした。
いまもなお、見つかりません。
「旦那」という言葉がいいかなと思ったこともありますが、
当時、私が行き着いたひとつが、友人から教えてもらった「情宜」(じょんぎ)という言葉でした。
南朝鮮と日本海側の北陸・東北の言葉のようです。
そこで、コモンズ通貨の「ジョンギ」も作ってみましたが、そこで止まってしまっています。

「医療の死」と「福祉の死」の現場は全く違います。
死は怖いものではなく、幸せにつながるものというのが、福祉の現場での死の捉え方ではないかと私は思っていますが、
看取るには「ケア」と同じ、双方向の関係要素があり、そこがとても今重要になってきているように思うのです。

「看取り」に関連して、最近気になりだしたのが、日本古来の殯(もがり)の風習です。
死に行く生者を看取るのではなく、死に行った死者を看取る行為です。
チベットの「死者の書」には、49日間の彼岸への旅立ちを支えるバルドゥの儀式が描かれていますが、死後49日はまだ生と死の中間で死者は「生きて」いますが、日本の殯は死者との寄り添い文化だと思います。
最近、遠藤央さんの「政治空間としてのパラオ」という本を読みました。
そこに「遺体をめぐる概念」という一節があるのですが、それを読むと、死者もまた生きている社会があることがわかります。
近代化の波から逃れてきた島々では、まだ黄泉の国との通路が閉じられていないのかもしれません。
沖縄には、まだそうした文化があるのかもしれませんし、アイヌにもあるかもしれません。
沖縄の方やアイヌの方がいたらぜひアドバイスください。

「看取り」文化への私の関心は、いまのところ深まるばかりです。
私の生き方にも深くつながっているからです。
よろしくお願いします。

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