■節子への挽歌3497:桜の季節がきました
節子
4月になってしまいました。
花見とは無縁な、10回目の春です。
誘われて花見に行ったことも、わずかですがありますが、まだ花見は辛いことの一つです。
節子と最後に見た桜は10年前のあけぼの公園の日本庭園の駐車場の桜でした。
家族みんなで行ったのですが、なぜかその時の情景が鮮明に残っています。
なぜそれが駐車場の桜だったのか、わかりませんが、節子には、最後の桜だとわかっていたのでしょう。
肝心の、あけぼの公園の桜の映像が浮かんできません。
まあ、人の記憶とは、そんなものでしょう。
そして、そうした記憶とは全く関係ないように、春はやってきます。
手賀沼の湖畔を通る道沿いの桜がほころびだしています。
節子がいなくなっても、必ず見ることになる、駅に向かう道路の側にある老木の桜も、咲きだしました。
そういえば、花見はしていませんが、この桜だけは必ず見ています。
そして、あまり意識はしていませんが、たぶん私も元気をもらっています。
花のことで、先日、友人からメールが来たのを思い出しました。
なぜか節子のことが書かれていました。
節子さんには2度お会いしています。 一度目は大津で(覚えてないでしょ)、二度目は湯島のサロンで。 素晴らしい雰囲気を身にまとった方ですね。 生き方や心根の美しさがそのままに現れていらしたのだと感じています。 花を皆さんにどうぞと、家の外にそっと置いておかれた話、印象に残って良く覚えています。 修君の全てを受け入れながら、優しくしかも自分を見失うことなく。 ほんとに早すぎるお別れでした。 でも、「まだ来なくていいですよ。まだ道は半ばで、したいことが残っているでしょ。いつだって会えるのですから。のんびりと待っています」 とおっしゃっていることでしょう。 ちょっと立ち入り過ぎてしまいました。ごめんなさい。
過剰な褒め言葉が並びすぎで、人の記憶とは変わるものだなという気がします。
しかし、褒め言葉は素直に受け入れましょう。
ただ、花の話は私にはあまり記憶がありません。
私が道半ばだというのも、ピンときません。
そんなたいそうな生き方はしていないからです。
記憶だけではなく、いまここにいる人の理解もまた、人によって違うのだなと思います。
でもまあ、こう褒められた以上は、今年も少し、私の思いに取り組もうと思います。
冷たい雨の朝から、今年の春は始まりました。
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