■節子への挽歌3507:死の報道への違和感
節子
先月、我孫子で少女の遺体が発見されて以来、そのニュースが毎日報道されています。
ベトナム国籍の少女が殺害されるというむごい事件です。
大きな事件ではありますが、毎日のように詳しい捜査状況などが報道されていることに大きな違和感を持っています。
人の死をニュースにすること自体に、私は違和感があり、ひどい時代になったとしか思えません。
マスコミは、間違いなくそうした事件を誘発してきています。
こういう話は、時評編の話題ですが、こういう報道に触れるたびに思うのは、一人の死が、どれほど多くの人に人生を変えてしまうかということです。
無責任に報道しているマスコミ関係者には無縁の話でしょうが、もし自分が当事者になったら、こんな姿勢で報道はできないはずです。
人は、さまざまな人とのつながりのなかで生きています。
ですから、人の死は、その人のまわりのいのちを大きく変えていきます。
私は、伴侶の死を体験して、初めてそれを知りました。
両親の死の時には、まだ実感できずにいました。
自分よりも年長の両親であれば、それは決められた順序であり、受け入れることができました。
悲しかったりさびしかったりはするものの、天の道理にはかなっています。
しかし、自分よりも若い人の死は、辛いものです。
若い友人の死は、両親の死とおなじように、辛いものがありました。
節子は、私よりも4歳しか年下ではなかったですが、順番が違うことには受け入れがたいものがありました。
いや、いまもなお、受け入れられていないのです。
子どもに先立たれることの辛さは、私には想像を絶します。
子どもの死の報道にふれると、両親のことが気になります。
おそらく多くの人が人生を変えてしまっていることでしょう。
人間の歴史は、そういう悲しみに支えられて、自らを律してきたような気がします。
せめて報道する人たちには、そういう悲しみの気持を持ってほしいものです。
興味本位の報道が多いのが、とても哀しく淋しいです。
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