■節子への挽歌3522:話を聴いてくれる人の大切さ
節子
やはり喉風邪のようです。
昨日はかなり回復してホッとしていたのですが、やはり順調に風邪に向かっているようです。
困ったものです。
もう風邪はやめようと思っていましたが、どこかに油断があったようです。
まあ心当たりはいろいろとあるので、油断だらけだったというべきかもしれません。
あいにく今日はいささか気の重い話ばかり予定されています。
こういう時に限って、なのです。
節子がいた頃は、気の重い話もいつもシェアしてくれましたし、少なくとも私の立場を理解してくれていました。
それだけでも、まったく違います。
すべてを一人で、それも内に込めて、抱え込んでしまうのは精神的にも身体的にもよくありません。
かといってこういうところに書きこむこともできません。
「王様の耳はロバの耳」という話が思い出されます。
先週、テレビの「こころの時代」で、ノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんが被曝後の福島の人たちを訪ねて耳を傾ける「“小さき人々”の声を求めて」を見ました。
それに触発されて、ソ連崩壊後のロシアの“小さき人々”を聞き書きした「セカンドハンドの時代」を読みました。
彼女はベラルーシの作家ですが、彼女が「小さき人々」と呼ぶ民の声を発掘し、それを自分の耳に聞こえるままに記録するという独自の文学を築いた人です。
チェルノブイリ原発事故の後も被災者の声を聞き歩いた彼女にとっては、福島取材をずっと待っていたのだそうです。
小さき人々の声は、ほとんどが体制への批判を意味しますので、大変な勇気と忍耐が求められます。
それに、小さき人々の声を聞きだす作業は、自分から話したがっている「大きな人たち」と違って、苦労も多いでしょう。
本やテレビで、小さき人々の発言に触れると、発言することの意味がよくわかります。
そして、発言を聴いてくれる人の存在が、とても大事なことがよくわかります。
聴いてくれる人がいなくなって、それは真に知ることです。
今朝、また、tugiさんがコメントくださいました。
いつも今でも一緒にいると思っていても、さがしても、さがしても、もう声を聞くことも、触れることもできません。
tugiさんも、話を聴いてくれる人との別れを体験された方のようです。
お気持ちがよくわかります。
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