■節子への挽歌3508:いのちのはかなさ
節子
蜂蜜を食べたことが原因で亡くなった幼児のことが報道されていました。
最近、乳幼児や子どもの死の報道が多いような気がします。
私自身の気持ちの持ち方のせいで、そういうニュースが目につきやすいためかもしれません。
今日も水難事故で亡くなった子供のニュースが流れていました。
子どものいのちは、いかにはかないものか、最近痛感します。
娘たちを、ここまで育ててくれた節子に、最近改めて畏敬の念を持ち始めています。
もっとも、あまり親孝行とは言い難い娘たちではありますが。
いまもなお心配が絶えませんが、まあそれは良しとしましょう。
いのちのはかなさを私が実感しだしたのは、つい最近です。
節子が亡くなってからも、死というものは、私よりも年長の人の話だと思っていましたから。
ですから節子の死が、どうしても受け入れられませんでした。
しかし、最近少し考えが変わってきました。
人の定めは、人それぞれで、それを素直に受け入れるべきだろうという考えになってきました。
そうしないと死んだ人が浮かばれません。
節子もまた人生を終えるべき時に終えたと思うと、心がやすまります。
節子は人生を全うした。
充実した人生だった。
そう思うことにしたのです。
いや、最近、ほんとうにそんな感じがしてきています。
人はいつも、死と背中合わせに、はかない世界で生きている。
その、はかない世界でどう生きるか。
節子はたぶん十分に生きたのではないかと思います。
闘病中の4年は、私よりもよほど充実して生きていた。
私もいつか、節子のようなしっかりとした生き方ができるようになるでしょうか。
死のはかなさは実感できてきたのですが、死そのものはなかなか実感できません。
死は、私にはまだ遠い世界のことでしかありません。
自らの死を実感するということは、やはり私にはまだ理解できずにいます。
それが幸福なのか不幸なのか、まだわかりませんが。
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