■節子への挽歌3525:他者を悲しませない死
節子
今日は「看取り」をテーマにしたサロンでした。
こうしたテーマに関して、もうわだかまりなく考えられるようになっていると思っていますが、そして実際にもそうなのですが、話し終わった後に、やはり疲労感が襲ってきます。
看取りをテーマにしたサロンにこだわっていること自体、実はまだ解放されていないのかもしれません。
もっと驚くのは、死や看取りに関して、自分でも思ってもいなかった言葉が自然と出るようになってきていることです。
今日も、なぜかだれにも看取られない「孤独死」がいいのではないか、と口に出してしまいました。
そんなことは、その時まで考えたこともありませんでした。
しかし、嘘をついたのではなく、その言葉がなぜか自然と出てしまったのです。
そして、考えてみると、孤独死こそ理想ではないかという気にさえなってきました。
ただ残念ながら孤独死するほどの自由は、生きている以上、望めないことかもしれません。
結局、人は孤独ではないからです。
テレビで時々「孤独死報道」がありますが、私が考えた孤独死は、死後もまた誰にも迷惑をかけない死に方です。
死後に迷惑をかけるのであれば、孤独死とは言い難い。
私の言葉遣いは、ちょっとおかしいかもしれません。
いつかもう少し敷衍したいと思いますが、孤独であれば、死は存在しないと思うのです。
前に書いたことがありますが、私にとって実感する死は、他者の死であって、私自身の死は絶対に体験できません。
であれば、他者がいない孤独の生には、孤独死はあり得ない。
そして他者がいなければ、つまり孤独に生きられるのであれば、死の悲しみは体験しないですむ。
そして他者に体験させなくてすむ。
他者を悲しませない死。
もしそんな死に方ができるのであれば、それがやはり理想だなと思います。
節子の死で、私は生き方が大きく変わってしまいました。
それは私にとってはとてもつらくて哀しいことでした。
もし私の死が、誰かにそんな悲しさや辛さを与えてしまうとしたら、その死は避けたいと思います。
節子は、私たちのために死を先延ばししていたのではないかということは書いたことがありますが、節子にとっての死は、自らの死ではなかったのです。
そんな気がずっとしています。
誰にも認識されずに、そういえば、最近あいつの噂を訊かないなあといわれながら、いつか噂する人もいなくなってしまう。
そんな死が望めるのであれば、最高です。
でもそれは私には望みうべくもない。
隠居とか遊行とは、そういうことなのだなと今日は気づいたのです。
孤独死は、私には夢のまた夢です。
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