■節子への挽歌3526:賢治の愛のうた
節子
ずっと気になっていたことが今朝、氷解しました。
節子はよく知っていますが、私の好きな詩のひとつが、宮沢賢治の「永訣の朝」です。
この挽歌でも取り上げたことがありますが、妹トシがなくなった時に、賢治が詠んだ詩です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/11/post-aaab.html
しかし、妹のための詩としては、どうもなじめなかったのです。
でもその違和感を確かめることはしませんでした。
そこに出てくる、「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」という言葉は、たしかに妹の言葉だったからです。
「雨雪をとってきてよ、賢治おにいちゃん」。
よほど妹思いだったのだなということでむりやり納得していました。
しかし今朝の「こころの時代 宮沢賢治 はるかな愛」で、賢治には思いを寄せた女性がいたことを知りました。
詩人の吉増剛造さんが、絵本作家の澤口たまみさんの書いた「宮澤賢治 愛のうた」を入り口にして、賢治の「春と修羅」を読み解いていくのです。
そして最後に、病床のトシが賢治に雪をせびった部屋で、吉増さんは賢治の「わたくしどもは」を読み上げます。
その部屋は、実は恋人の女性も訪ねてきた部屋だったようです。
「わたくしどもは」の詩は、はじめて知りましたが、私が書いたような気にさえなるような私好みの詩でした。
その詩は、この記事の最後に書いておきますので、よかったら読んでください。
この詩を読んでから、「永訣の朝」を読み直すと、これまでとは全く違う賢治が見えてきます。
そして私の長年の違和感は氷解したのです。
賢治の恋人は結果的には賢治ではなく別人と結婚し、アメリカにわたります。
そして27歳の若さで、アメリカで亡くなるのですが、それはともかく、賢治の「春と修羅」が完成したのは、彼女がアメリカに立つ1か月前だったのだそうです。
彼女にはわたっていたでしょう。
それは2人の秘められた記録だったのかもしれません。
そして彼女が渡米した直後に、賢治は「わたくしどもは」を詠むのです。
実に思いのこもった作品です。
長いですが、書いておきます。
しつこいですが、私が書いた詩のような気が、なぜかしてなりません。
もちろんそんなはずはないのですが、そう思う理由もまた、いつか書いてみたくなるかもしれません。
〔わたくしどもは〕わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壺にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろの菓物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
……その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
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