■節子への挽歌3513:終わり方を振り出しに戻しました
節子
いとこたちと久しぶりに会いました。
今回、集まったなかでは私が下から2番目ですが、年上の方がみんな元気なのです。
さまざまな人生のしがらみから解放されている人ほど、元気な気がします。
これは、人との付き合いは、煩わしい一方で、人生を豊かにするという私の考えに反します。
考え方を少し変えたほうがいいかもしれません。
一番遠くから来たのは神戸からですが、彼は結婚もせずに人生を楽しんできました。
いまはゴルフと旅行とサスペンスドラマを楽しんでいるようですが、心を許せる友人以外は、あまり人に会っていないようです。
もちろん同窓会や会社時代の同期会などには参加しているようですが、気の向くままの悠々自適な暮らしぶりを感じました。
時々、いとこに会いたくなって東京にやってくるので、彼が上京するたびに、私がいとこたちに声をかける役割なのです。
関東にいるいとこたちも、彼が来ないとなかなか集まるきっかけが得られません。
ライフスタイルがそれぞれ違うので、普段は集まろうという気にはなかなかなりません。
集まった直後は、とりあえず健康の話です。
みんな70~80代なので、いつどうなってもおかしくありません。
それぞれに健康管理をしているようで、私もいろいろとアドバイスをもらいました。
まあしかし、人の健康は人それぞれです。
いとこたちは、私の生き方が理解できないと言います。
たしかに世間的には「常識」的でない生き方をしています。
苦労も多いし、心やすまらないことも少なくありません。
私も、最近は生き方を間違ったかなと思うこともないわけではありません。
しかし、まあ人生は一度きりしかないわけですから、間違っていたなどということはありません。
実際に生きてきた人生だけが、善し悪しや正誤を超えて、唯一の人生なのです。
間違っていたなどと思うのは、逃避でしかありません。
それにいまさら路線変更はできません。
困ったものですが、いま背負っている重荷を背負い続けていかなければいけません。
せめて荷物をさらに背負わないようにしたいですが、これまた生き方を変えられない以上、無理な話なのです。
私は生前葬をしたいので、その時に気が向いたら来てくださいと話しました。
でもだれも本気で聞いていなかったような気がします。
しかし考えてみると、生前葬をやるのも結構大変です。
節子がいたら、来週生前葬をやるのでよろしくと気楽に頼めますが、娘たちには頼みがたいです。
となると一人でやらねばいけません。
私の場合、自分の死期がわかってから生前葬をやろうと考えているのですが、それだとそもそも私に呼びかけるエネルギーが残っている可能性は少ないです。
節子がいないと、生前葬はできないかもしれません。
さてどういう終わり方をするか。もう一度考え直さないといけません。
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