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2017/04/27

■節子への挽歌3523:人は、思わぬところで生きていて、思わぬ人に会っている

節子
ある人からメールが来ました。
こんなメールです。

友人の紹介で、コミーという会社に行って小宮山さんに案内してもらいました。 ところが小宮山さんから、「しゅうさん」と言う言葉が何度も出て、どなたかなあと思っていたら、佐藤さんなんですね。 不思議なご縁にびっくりです。

私もびっくりです。
それに小宮山さんは、その人が私の知り合いなどとは知る由もありません。
なぜ「しゅうさん」の名前が何回も出てきたのか、いささか気になりますが、おかげでまったく無関係な3人がつながっていることがわかったわけです。
その人は群馬県在住ですし、小宮山さんは埼玉在住、私は千葉在住で、地域的にも離れていますし、活動分野もそれぞれ全く違うのです。

ところで、このことからこんなことがわかります。
人は、思わぬところで生きていて、思わぬ人に会っている。
私は、自分では気づかないままに、埼玉で群馬の友人に出会っていたわけです。
今回は、友人が教えてくれたからわかりましたが、私はもっとさまざまなところで生きているのでしょう。
そう考えると、孤独の人などいないのです。
みんないろんなところで生きていますから、たとえ引きこもろうとも寝たきりになろうとも、決して一人ではないのです。
孤独死など、あろうはずもないのです。

今度の土曜日に、「看取り」をテーマにしたサロンを開きます。
その参加を連絡してきた友人が、こう書いています。

私は、誰にも看取られずにウマク🐴鎮かに死にたいと願っていますがー。 こういう人間もいるのですよね。
ちなみに、「ウマク🐴」というのは、この人は乗馬が趣味の人で、人よりも馬や猫が好きな人なので、こんな表現をしています。

誰にも看取られずに死ぬことになるだろうなという人は私のまわりにも何人もいます。
でもそんなことはありえないのです。
みんな誰かに見守られて生き、最後も看取られているのです。
自分では気づかないかもしれませんが、どこかで誰かの中に生きているのです。
そして自分では知らないうちに、誰かの世界の一部を構成し、誰かに会っている。
そんな気がします。
この世に生を享けた以上、孤独であるはずがないのです。
でもそれが実感できないのが現在かもしれません。
しかし、それはそう思えばいいだけなのです。

孤独だという「傲慢さ」は捨てなければいけません。
孤独では生きてなどいけないのですから。
生きている以上は、孤独ではないということなのです。

あれ!
書こうと思っていたことがいつの間にか違うことを書いてしまいました。
書こうと思ったのは、節子もまだ生きているということだったのですが。
困ったものです。

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