■節子への挽歌3550:単なる無我では寄り添えない
節子
今日もまた、お昼を食べそこないました。
湯島にいると、人の絶え間がないのです。
今日はお昼時に30分ほど、時間があいたのですが、その合間に急遽やらなければいけないことが発生し、食事ができなかったのです。
湯島に出ると、こんな感じになりがちなので、できるだけお昼を一緒にする予定を組むのですが、うまくいかない場合も少なくないのです。
節子がいた時には、5分で食べられるようなおにぎり弁当を作ってくれていましたが、いまはそれもありません。
もともと「食べる」ことにはあまり意味を見出していませんので、お腹がすかなければ食事などしたくないのですが、食べていないと夕方には体力が尽きてしまう感じになるのです。
今日がそれで、帰宅するのがやっとで、娘に迎えに来てもらいました。
困ったものです。
ある人の相談に、私だけでは対応が難しいので、その分野に通じている人に同席してもらいました。
その人には前も別の問題で、同席してもらったことがあるのですが、どこかに違和感があります。
今回もそれを感じました。
どこが違うのか。
彼も、完全に無償で時間を割いてくれているのですが、そして親身になって考えてくれているのですが、どこかに違和感があります。
やはり私が特殊なのかもしれません。
友人が、私の言葉にヒントを得て、「寄り添いネットワーク」なるものを立ち上げようとしています。
私も以前はそれを考えていたこともあります。
「寄り添う」という言葉は、しかし、実に難しい。
今日は、つくづく、そのことを思い知らされました。
「寄り添う」には、無我になることが必要ですが、無我になってしまうと、寄り添う自分がいなくなってしまう。
今日もまた、宿題をもらった気がします。
しかし、体力がなくなってきているのが、無念です。
| 固定リンク
「妻への挽歌18」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌4500:東尋坊からのお餅(2019.12.28)
- ■節子への挽歌4499:歯医者さんと節子(2019.12.27)
- ■節子への挽歌4498:年末のお接待(2019.12.26)
- ■節子への挽歌4496:年末の相談つづき(2019.12.24)
コメント