■節子への挽歌3540:人間の存在自体がひとつの負債
節子
またしばらく挽歌が書けませんでした。
良くも悪くも、精神が安定していないと書けなくなってきました。
以前、挽歌を書くのが日課だった頃は、こんなことは全くなかったのですが。
挽歌以上に書けなくなってきているのが、時評編です。
サロンの案内などは書いていますが、時評編らしい時評はもうかなりの間、書いていません。
時評編が書けなくなってきたのは、いろいろと理由がありますが、世間の常識と私の常識の、あまりの違いにへこたれてしまっているからかもしれません。
どうも私の考えは、常識からかなり外れているようです。
そういえば、節子がいつもそういっていましたが、それは節子の常識のなさのせいではないかと思っていましたが、どうも常識がなかったのは私のほうだったようです。
いやはや、困ったものです。
連休後半から読みだした「負債論」という大部な本を、月曜日に読み終えました。
厚さ5センチの、この本は、最近読んだ本の中で一番刺激的でした。
私のまわりで議論されている瑣末な話題を、根本から切り崩す内容で、みんなにも読んでほしいですが、あまりにも厚いので、読んではくれないでしょう。
それに、この本を読んだからと言って、何かがわかるわけではないかもしれません。
この厚い本を読めたのは、たぶんこれまでそれなりにいろんな本を読んできたからです。
そうでなければ、いろんなところで引っかかったでしょう。
読書とは、当面の本だけを読んでいるわけではなく、蓄積的な行為であることが、この本を読んでいてよくわかりました。
「負債論」のなかに、インドのヴェーダの知恵が紹介されています。
生れ落ちた人間は負債である。彼自身死せるものとして生まれ、自己を供犠としてはじめてみずからを死から救済するのである。
つまり、人間の存在自体がひとつの負債であり、生きるということは負債を返していくことだというわけです。
これだけだと、本書の言わんとすることはまったく誤解されてしまうのですが、このこと自体には、私は思うことがたくさんあります。
この本を読むまでは、私はむしろ「人間は価値であり、生きるとはその価値を活かすこと」というように、なんとなく考えていました。
ヴェーダは、それとは真反対のことを言っているのです。
考えてみると、このヴェーダの指摘はとても納得できるものがあります。
そして、だとしたら、生後、人生において背負ってしまった「負債」など瑣末なものではないか、そんな気もしてきます。
自分のことも含めて、いまいくつかの難問を突き付けられています。
そうした問題への取り組みも、根本から考え直さなければいけないのかもしれません。
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