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2017/05/13

■節子への挽歌3538:逃げている生き方

節子
あまりにもさまざまな(量ではなく内容の多様さですが)問題に、最近ちょっと「心」が押しつぶされそうになっています。
節子はよく知っていますが、私は「頭の切り替え」は比較的得意で、目の前の問題に集中することができました。
だからどんなに忙しくても、忙しさはあまり感ずることがなく、問題解決を楽しめる生き方ができていたのです。
言い換えれば、複数の問題に並行して取り組み、そのおかげで、まったく異質だと思えるような問題がつながっていく面白さを体験できたのです。
しかし、最近は、いささか、その多様さに押しつぶされそうなことがあるのです。

時間がないとどうしても自分の問題は後回しになります。
「自分の価値観に合わないこと」も後回しになる。
自分の問題はいざとなれば放棄か自己納得すればどうにかなりますが、他者が関わっていると私だけではどうにでもならなくなるからです。
それに、「自分の価値観に合わないこと」はやりたくないからです。
そして、やりたいことから取り組んでいく。
ある意味では、逃げているわけです。
これが私の思考パターンなのですが、そのためか、自分にまつわることや考えるのさえ嫌なことがどんどん山積みされていくのです。
この調子だと、自らの死さえ、後回しにしかねないのではないかと思うこともあります。
いや、実はもう私の人生は終わっているのかもしれません。
こんな言い方をするとおかしく思われそうですが、人は自らの死を忘れることもあるのです。
節子を看取って、そういうことのあることを実感しました。
節子は、おそらく死を1か月は忘れていたのではないかと思います。
これについては前に書きましたが、家族のために現世に残っていたのです。

いまの私は、外部から見たら、むしろ元気に見えるでしょう。
たしかにいろんなことをやっている。
しかし、そうした活動の底に、おぞましいことも含めて、さまざまなものが沈殿しているのです。
そうした「上澄み人生」は、どこかで壁にぶつかるでしょう。
最近そんな思いが、時々、浮かんできます。
心が押しつぶされているせいでしょう。

そろそろ逃げる生き方からは抜け出さなければいけません。
今朝は、なぜか不思議とそんなことを思いながら、起きてきました。

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