■節子への挽歌3559:空海の過ち
節子
空海は、「一身独り生没す」と書いています。
わが身は一人ぽっちで生まれて死んでいくというのです。
これは明らかに間違いでしょう。
空海がこの言葉で何を伝えたかったかを別にして、これだけを考えれば、空海の過ちとしか言いようがありません。
弘法も筆の誤り、です。
先日、みなさんから誕生日のお祝いメッセージをもらいましたが、私は誕生日に生まれた記憶は皆無です。
たしかに母胎から生まれ落ちたのはその日かもしれませんが、私の生命が誕生したのはそれ以前でしょうし、私という人格が生まれたのは、たぶんそのずっと後です。
人は、他者や自然との関係性の中で、生まれていくのだと思います。
孫を見ていると、それがよくわかります。
孫はこの世に出現してから1年ちょっとですが、まわりの人や時代環境のなかで、具体的な「自分」を育てているように思います。
人は、まわりの支えによって生まれ、育ち、支えによって死んでいく。
決して、「一身独り生没す」ではないのです。
そう思うと、人生は、あるいは自らの心身は、自分だけのものでないことに気づきます。
そして、人はそれぞれに自分とは別の大きな流れの中で生きていることにも気づかされます。
さらに、自らの役割も見えてくる。
たとえ不満であろうとも「役割」は果たさなければいけません。
「一身独り」でないのは、なにも「生没」に限ったことではありません。
むしろ「日常を生きる」のも「一身独り」ではない。
どんなに引きこもろうと山にこもろうと、一身では生きていけないことは明らかです。
必ずや他者の世話になっているはずです。
他者が人間ではない場合もありますが、間接的に捉えれば、すべての生命もまた人間とは無縁ではありません。
なにしろ同じ地球に存在しているわけですから。
私は、たくさんの友人知人に恵まれています。
そして今も、毎週、数名の新しい出会いがあります。
そういう生き方をしていると、人の考えや生き方がいかに多様であるかに気づかされます。
誠実に勤勉に生きている人もいれば、狡猾に放逸に生きている人もいる。
人にだまされて生きている人もいれば、人をだまして生きている人もいる。
あるいは、自分にだまされて生きている人もいれば、自分をだまして生きている人もいる。
歳をとって、いろいろな人と出会ったおかげで、そういうことが少し見えるようになってきました。
私自身も感ずるのですが、最近はとても生きにくい社会になった気がします。
しかし、もしかしたらそれは、誠実に勤勉に生きている人にとっての話かもしれません。
空海の「一身独り生没す」と関係ない話になってしまったように思えますが、そうではなくて、私は、この「一身独り生没す」という空海の考えが、すべての原因ではないかと思い出しています。
人は決して、「一身独り」で生きているのではありません。
「一身独り」で生きていると思うから、「お金」が大切だと思ってしまうのかもしれません。
みんなで一緒に生きていると思えば、「お金」より大切なものが見えてくるような気がします。
ちょっと大きな話を書いてしまいました。
いろいろと考えることの多い昨今なのです。
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