■節子への挽歌3591:「人は出て行くより、出て行かれたほうが傷つく」
節子
節子もよく知っている友人からメールが来ました。
一緒に始めたシェアドオフィスや組合的な会社が、私の手に負えなくなった(私が仕事をやめた)ので、彼に委ねたのですが、そろそろ次に転身することを考えたいという内容でした。
そのメールの中に、こう書かれていました。
長年、(シェアドオフィスを)やってきて、度々感じていたのは、「人は出て行くより、出て行かれたほうが傷つく」です。
出て行く方は、(たとえ追い出されたのだとしても)次に向かって進むのですが、出ていかれた方はなんだか釈然としない気持ちだけが残ります。
たつ鳥後を濁さずは、ほんとにそうだなあと思います。
そうやって思うと、自分は親の気持ちなんてこれっぽちも考えたことはありませんでしたが、子どもが出て行くときにはどんな気持ちになるんだろうと、恐ろしくもなります。
でも、今回の件は、「自分は出て行くので、みなさんもそれぞれに」という話なので、やはり申し訳ないです。
とてもよくわかります。
人は、体験したぶんだけ世界を広げられます。
だから人生は、常に後悔ばかりなのです。
歳をとるにつれて、それがよくわかってきます。
節子は、この世から出ていきました。
出ていく節子は、傷つくことはなかったかもしれません。
おかしな言い方ですが、死の向こうに体験したこともないような未来があるからです。
こう思えるようになったのは、節子を見送って数年してからです。
哀しくてさびしくて、釈然としないのは、残された者。
そうなのです。
死にゆくものは幸いなのかもしれません。
残されたものに比べれば、ということですが。
死の向こうにあるのはどんな未来なのでしょうか。
ところで私が出ていくときに、残される人がいないようにしなければいけません。
節子が出て行ったのは、ちょっと早すぎた。
ですから残され感が、家族には残りました。
そうならないように、私は節子の分までこの世に残り、みんなにもう早く逝ってよと思われるようになってから出ていくのがいいような気がしました。
なんだか生きる目標が見つかったような気分です。
みんなにいなくなってよかったなと思ってもらえるように、いや、生きているうちに存在感が消えてしまうように、生きるように心がけようと思い出しました。
今日、何かがあったわけではありません。
いや、なかったわけでもない。
人生にはいろいろあります。
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