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2017/07/17

■節子への挽歌3605:もうひとつのこの世

節子
先日、筧次郎さんという「百姓暮らし」をしている人の書いた「王の愁い」という短編小説を読みました。
前に書いたかもしれませんが、「ミリンダ王」にまつわる恐ろしい話です。
筧さんは、作家ではなく哲学者です。
哲学や思想にまつわる本を書くたびに、論理を超えた感情の世界が広がるようで、それを「一種の挿し絵」として書き溜めていたのが、「王の愁い」が収録されていた短編小説集なのだそうです。
ということは「王の愁い」の「本編」があるはずです。
たしかなことはわからないのですが、筧さんの著作の中から探すとどうもそれは「死を超えるということ」という本のようです。
それを読みました。
もしかしたら違うかもしれませんが、たぶんそうでしょう。

その本は違和感なく読めました。
論旨はこういうものです。

仏陀は、分別的な認識に現われる「人間のこの世」とは別の、無為自然な「もう一つのこの世」を経験したのであり、これが悟りと言われる体験である。

筧さんは、子どもの頃から死が怖かったそうですが、仏陀によって示された「もう一つのこの世」に気づけば、死は怖くないと言います。
「もう一つのこの世」では命も未分化であり、死というものが存在しないからです。
分別的な眼差しに「私」の死と見えたものは、全体の大きな流れの一部分にすぎないのです。

これだけではよくわからないかもしれませんが、要は私たちを取り巻く「個物の集まりである世界」は実相ではなく、それと同じように、個物や時空を超えた「もう一つのこの世」を生きているというのです。
「もう一つのこの世」は、死後の世界、いわゆる彼岸ではありません。
現に今、ここにある「もう一つのこの世」なのです。

先ほど読み終えたばかりなので、まだ消化できていませんが、まあざっとこんなことが書かれていました。
衝撃を受けた「王の愁い」の話とはなかなかつながりませんが、ポイントは「言葉」のようです。

この本を読んでまた新しいことに気づきました。
最近、「彼岸」は死後の世界ではなく、いまここにあるのではないかという気がしだしていました。
考えてみれば、ずっとそう感じていた気もします。
仏陀のように、悟りを得たわけではありませんが、素直に考えれば、そうなるような気がします。
もう少し考えてみたいと思いますが、「この世」は多層構造なのです。
唯識の世界でも、そういうことが言われていると思いますが、死はますます身近になってきました。

ちなみ私は、死への恐怖はむかしからありません。
しかし「別れ」への未練は大きいです。
だから、一度でも袖触れ合った人との繋がりは大事にします。
私ほどではありませんでしたが、節子もそうでした。
それはもしかしたら「もうひとつのこの世」を感じていたからかもしれません。

最近思うのは、どうして多くの人は「人のつながり」を大事にしないのだろうかということです。
みんな「人間のこの世」だけで生きているからでしょうか。

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